2011年11月17日木曜日

「恋」と「愛」との違い


「恋」と「愛」とはどう違うのだろう。いろいろな見方があるだろうが、飯田史彦『愛の論理』(PHP文庫)では次のように「恋」と「愛」を区別している。

恋とは、相手が持つ所有物(容姿・性格・才能・富・仕事・家柄などの属性)に価値を感じて一時的に高揚する、『相手に受容されることや相手を支配することによって、相手と一体化したい』と願う感情である。」
愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。」

なかなか周到な定義のしかたである。「恋」が一時的に高揚する単なる〈感情〉であるのに対して、「愛」は決断・意志・能力に支えられた〈行為〉だと言うのだ。ぼくはかねがね、「恋は一瞬にして燃え上がる炎たりうるが、愛は共有した時間の長さである」などと、したり顔で酒呑み相手にまくし立てたりしたものだが、ぼくの言い方なぞ何の定義にもなっていない。

ただ〈行為〉としての「愛」にもウェイトを置きつつ、「恋」の〈感情〉も大切にしたいときだってある。一概に「恋」より「愛」の方が上等だなどとは断言したくない。一時的に高揚する「恋」の〈感情〉がやがて静かに落ち着いていき、なおかつ、相手の幸福を願い成長を支援する〈行為〉としての「愛」をより深く自覚するとき、そこに心のきずなが生まれるのだろう。

場合によっては、相手を支配することを懼れ、むしろ、自ら身を引き、相手を解放することによって成就される「愛」もある。成功ではない幸福。欲望を離れた希望。目標の定まらぬ目的。そうしたものを我が身に引き受ける人生であってもいいではないか。

2011年11月16日水曜日

『歎異抄』(金子大榮・校注)


 住まいの近くに「最賢寺」という浄土真宗大谷派の寺院がある。市の天然記念物にも指定されている銀杏の巨木が境内にあって、秋には黄金の彩りが見事だ。

 この寺は、金子大榮という真宗系仏教学者の生家である。戦前の一時期、金子大榮はおのれの信仰信念を貫いたため、大谷大学の教職を追われたことがある。その後、名誉回復を果たしたが、そうした芯のある思想家ぶりにぼくは長く傾倒してきた。

 高校のとき、倉田百三で親鸞を知ったぼくは、親鸞関係の本を読んだり、さっぱり理解できないまま『歎異抄』や『教行心証』をひもといたりしていた。ぼくが持っていたのはどちらも岩波文庫版で、いずれも金子大榮の校注によるものだった。

 授業に出たくないときは保健室のベッドに転がり込んで読書に励んでいた。最初はいろいろな文庫本をベッドに持ち込んでいたが、やがて『歎異抄』が定番になった。金子大榮の注釈は高校生にとっては不親切きわまりないものであったが、それが逆に自分の力で読み解こうという意欲を駆り立ててくれた気がする。意味が通じるまで何度も読み返した。

 この『歎異抄』の中に出てくる「ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮(こけ)をいだけるものか」という言葉は、ぼくのごまかしの生き方を鋭く射抜いていた。思春期にして出逢ったこの言葉に、ぼくはいまだ射抜かれ続けていると言ってもよい。

 この書を通じて、我が身がとかく「罪悪深重、煩悩熾盛」の凡夫であることを思い知らされたものだ。「金子大榮」という名前を目にするとき、今でもほろ苦い感覚がどことなく伴う。当地に引っ越してきて、その金子大榮の生家が住まいのすぐ近くにあったことは、大きな驚きであり喜びであった。

己れの心で花を狩る


棟方志功の版画に「華狩頌板画柵」という作品がある。この作品について、棟方は自著『板極道』(中公文庫)の中で次のような解説を行っている。

「けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、花だと、心で花を狩る。きれいな心の世界で美を射止めること、人間でも何でも同じでしょうが、心を射とめる仕事、そういうものを、いいなあと思い、弓を持たせない、鉄砲を持たせない、心で花を狩るという構図で仕事をしたのです」

うまいことを言ったものだ。同じようなことを述べた断章は『星の王子さま』の中にも出てくる。有名な次の一節だ。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ。」

だが、残念ながらサン・テグジュペリの言い方はネガティブだ。棟方の言葉はもっと前向きである。心で花を狩る。心で射とめられた花はきっとかけがえのない美しさを放つに違いない。言い換えれば、花はそのとき「心を射とめる仕事」を果たしえたのである。

誰にだって聞く「耳」はある。話す「口」もある。でも、「聞く耳をもたない」人もいる。「何ごとにも口をつぐむ」人もいる。おそらく肝腎なのは耳でも口でもないのだろう。大切なのは「心」。

だとするならば、結局は、自己を顕示するか、自己を隠蔽するかだけの問題となる。二つも三つも「自己」はない。一つの「自己」に二つも三つも「心」はない。

2011年11月15日火曜日

『直筆で読む「人間失格」』(太宰治)


『直筆で読む「人間失格」』(集英社新書ヴィジュアル版)は面白い。この「直筆で読む」シリーズは、最初に『直筆で読む「坊っちゃん」』が出版された。大学生だったとき、漱石の筆蹟や用字法の真似をしていた時期がある。したがって、『直筆で読む「坊っちゃん」』が廉価で発売されたときは欣喜雀躍した。税込1,260円であった。

 それに次ぐ『直筆で読む「人間失格」』は税込1,470円である。ページ数が多いこともあるが、組版や製本に工夫が見られる。『坊っちゃん』ではノドの印刷部分を読むのが大変だった。背の糊が強すぎる。固すぎる。そのため、無理をして開こうとすると本が背で割れてしまう。それに比べて、約1年後に上梓された『人間失格』は実に造本が良い。

「直筆で読む」の新書ヴィジュアル版シリーズはぜひ続けていってほしい。芥川龍之介、宮澤賢治、谷崎潤一郎、川端康成、などなど、「直筆」の写真版を作品単位で手許に置いておきたい作家はたくさんいる。

 近現代の文芸家は活字化されることを前提にして創作しているだろう。活字には活字の読み方がある。「坊っちゃん」にせよ「人間失格」にせよ、集中すれば半日で読める程度の規模だ。だが、直筆原稿となるとそうはいかない。手間やひまが掛かる。しかし、自分の好きな作家の好きな作品なら、手間の掛かる味読熟読も悪くない。量より質を求めたい。

 太宰治の直筆原稿(写真版)を見ていると、いろいろなことに気づかされる。文字が丁寧である。消去部分は完全に線を網状に細かくクロスさせて消している。挿入部分も明確に示されている。一貫して文字に乱れがない。句点・読点も実にわかりやすく記されている。太宰治という人間は、実に几帳面で破綻の少ない物書きであったことが手に取るようにわかる。

 だからこそ、太宰治はアナーキーな破滅型無頼派として、また、アイロニカルな放蕩的エピュキュリアンとして自己演技せざるをえなかったのではあるまいか。おそらく誰にでもそういう「狂人」としての心理傾向はあるはずだ。そうした人間の普遍性に対する一つの思索成果が、太宰治の「人間失格」だったのではなかろうか。

 若い頃、太宰治をずっと嫌悪していた。同族嫌悪であったかもしれない。特に「人間失格」という作品が嫌いだった。本当の「失格」を味わっている人間はこうは書かないと直感したからだ。その直感が当たっていたかどうか、いまだ不明である。

このヒゲ何をもたらすや


ぼくは髪もヒゲも伸び放題の野卑な風貌をしている。頭髪はいつも頭の後ろで束ねているが、その長さはもはやヘソの辺りまである。そんな姿で洗面所の鏡の前に立つと「ヒッピー」という言葉しか思いつかない。だが、ヒッピー風のファッションセンスもない。首から下はごく普通のおじさんスタイルだ。

頭髪は今も伸び続けている。しかし、面白いことにアゴヒゲというのは一定の長さまでしか伸びてくれない。放置しておけば、中国の仙人図のようにヌラヌラと何メートルでも伸びていくのかと思っていた。だが、個人によってリミット値があるようだ。ぼくの場合は、片手で握るのにちょうど良い長さのところで留まっている。

ズック靴やウォーキングシューズなど、かかとのところにつまみが付いている。紐が通せるようになっていることが多い。そのつまみやそこに通す紐のことをブートストラップと呼ぶ。ブートストラップをつまんで自分を持ち上げられるかという問がぼくは好きだ。同様に、自分のあごひげに掴まってぶら下がることができるかという問も楽しい。

ヒゲづらを始めた最初のころ、ある居酒屋の女将さんは「ヒゲの殿下みたい」と言ってくれた。三笠宮寛仁(ともひと)親王のことだ。殿下は自らがアルコール依存症であることをカミングアウトした。ある大学院の女子学生さんは「監督さんみたい」と言ってくれた。「監督」とはおそらく宮崎駿監督のことを指していたのだろう。

多くのひとは「山男みたい」と言った。「雪男」ではない。もしかすると本心は、「山賊みたい」と言いたかったのかもしれない。「海賊みたい」かもしれないし、「盗賊みたい」かもしれない。思えばぼくは「賊」であり「俗」である。「学校の先生のくせに……」とも言われた。口に出さなくてもそう思っている方々は多いだろう。

ぼくがヒゲを剃らなくなったのはただ面倒くさくなっただけだ。特に意味もなく、特段の理由もない。このヒゲづらにいちばん面白い反応を返してくれたのは、今は亡きオトンである。当時、オトンは孤独な入院を続けていた。ぼくは月に一度ほど岡山まで車を走らせてオトンを見舞った。

ヒゲづらになってから最初にオトンの病室を見舞ったとき、オトンは何やらゴソゴソと菓子箱を取り出してきた。おもむろにその箱を開けると、中には電気カミソリがしまってあった。電気カミソリをぼくの目の前にニュッと差し出しながらオトンはこう言った。

「おい。早う剃れ。」

オトンにとってはいかなるヒゲも単なる無精ヒゲでしかない。すべてのヒゲは剃り残しである。ぼくの場合は確かにそれに間違いないのだが、いきなり「早う剃れ」と言われるとやはりおかしかった。思わずぼくは笑った。オトンの前で笑ったのは久しぶりだった。ぼくは当分の間、このヒゲは剃らないだろう。

2011年11月14日月曜日

花田清輝『復興期の精神』


 花田清輝はおもしろい。まずは岩波文庫の『花田清輝評論集』はお薦めである。日本語の文章表現というものが、いかに多様な可能性を秘めているかをここまで端的に示してくれる書き手はそう多くない。少なくとも日本語によるアイロニーとパラドックスの卓越した文章表現者の一人が花田清輝である。

 講談社文芸文庫には『復興期の精神』が収録されている。このエッセイ集は、戦後まもない1946年(昭和21年)10月に我観社から刊行された。花田清輝の誕生日は1909年(明治42年)3月29日であるから、花田清輝37歳だ。

 ここに収められている連作エッセイは、太平洋戦争が開戦する1941年(昭和16年)から「ルネサンス的人間の研究」というシリーズ名で書き継がれていたものである。エッセイの一篇一篇は、韜晦趣味と衒学趣味とをあえてぎらつかせることによって、著者自身の主張をその背面に隠すという手法が随所に見られて、実に痛快である。

 花田清輝は我観社版『復興期の精神』の跋文を次のように書き起こしている。

「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一連のエッセイを書いた。良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された。いまとなっては、殉教者面ができないのが残念でたまらない。思うに、いささかたくみにレトリックを使いすぎたのである。一度、ソフォクレスについて訊問されたことがあったが、日本の警察官は、ギリシア悲劇については、たいして興味がないらしかった。」

 この何とも皮肉めいた書きぶり、逆説的な物言いこそが花田清輝の身上だ。花田自身が述べている通り、彼の文章は「レトリック」に充ちている。美辞麗句に見せかけるための「レトリック」ではない。虚妄を糊塗するための「レトリック」でもない。その「レトリック」を用いなければとうてい伝達できないような含意を発生させるための仕組みなのだ。

 素面のときに読んでも面白いのだが、ほろ酔い気分で読むと花田清輝の文章は実にいい。気持ちよくなる。ページをめくるごとに何度も唸らされる。ぼくは死ぬまでこんな文章は書けないなあと嘆息する。彼は1974年(昭和49年)9月23日に脳出血のために逝去した。満65歳であった。

土星と金星とおじさんと


 車を運転して岡山に向かう途中の話。神戸ジャンクションから山陽道に分岐し、三木というサービスエリアで休憩した。暁ごろのことだ。タバコを一服していると、一人のおじさんに声を掛けられた。

「土星が見えてるで。見まへんか。」

 声の主は、二基連結のでっかい天体望遠鏡を空に向けて構えていた。ぼくは誘われるままに接眼レンズに目を寄せた。ややぼんやりとしているが、確かに輪っかの付いた星が中央にはっきり見えた。ヴィヴィアン・ウェストウッドのロゴマークさながらの神秘的味わいを感じた。

「こっちの方は金星や。どや、ちょうど半月みたいやろ。」

 おじさんにそう言われて、もう一方の望遠鏡をのぞき込む。明けの明星。肉眼でもひときわ明るく輝くのがはっきり見える金星は、本当にお月様ぐらいの大きさに拡大されて見えていた。半分ほど欠けていて、半月そのもの。半身がヴェールで覆われたヴィーナスとでも呼ぶべきだろう。

 おじさんは、天気のいい日の未明には、このサービスエリアで天体望遠鏡を構えるらしい。星をいろんな人に見てもらうのが趣味なのだそうだ。通りがかる一人ひとりに「土星、見まへんか?」と声を掛ける。「うわー、すごい!」と言ってもらえるとホントにうれしそうな表情をして微笑んでいる。

 お話をいろいろ伺うと、狙った星にばっちり方向を定めて、ピントが合った状態に保つのはなかなか大変なことらしい。

「まあ、毎日が練習みたいなもんや。」

 なかなか凄みのある決めぜりふだ。隠れた達人である。曙光が射し始める少し前の忘れられない出来事だった。土星も金星もいいが、ぼくは再びあのおじさんに会いたい。

2011年11月13日日曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(三)


 河上徹太郎が亡くなったあと、ぼくは河上の執筆順序とは逆に、彼の作品を読んでいった。『わが小林秀雄』(昭和出版)、『歴史の跫音』(新潮社)、『わが中原中也』(昭和出版)、『近代史幻想』(文藝春秋)、『吉田松陰の手紙』(潮出版)、『有愁日記』(新潮社)、『吉田松陰――武と儒による人間像』(文藝春秋)。河上徹太郎の文章もクセがある。小林秀雄の文章にも通じる「くろうとの達文」だ。論理がないのに論理があると見せかける技、論理があるのに論理を崩して語る芸、いずれも熟練の技を拝み見ることができる。

 ぼくは、『文學界』1979年11月号に掲載された対談記事「歴史について」を超える文芸対談記事に、いまだにお目に掛かれないままである。チャンスに恵まれないのはぼくが怠惰になったせいもあるだろう。河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』(中央公論社)の中で、中原中也、萩原朔太郎、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三らを《日本のアウトサイダー》として論じている。

 河上は、西欧における「インサイダー」対「アウトサイダー」という対立が、キリスト教の「正統」対「異教徒」に由来すると見る。その上で、「日本にはインサイダーがない」と前提する。「わが国では正統はただアウトサイダーの希望の中にだけあるのだ」と展開する。そして、《日本のアウトサイダー》とは、「いつも個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界にあって、それによって現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいる」、そのような人物なのだと結論する。

 いま、ぼくはこの河上徹太郎の言葉に重りをつけて、もう一度自分自身の心の中に垂らしてみようと思う。「個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界」に己れの居場所を決めること。そして、その作業場で、「現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいる」こと。河上徹太郎の生前最後の単行本『史伝と文芸批評』も近いうちに読み直してみようと思っている。そして、当然、小林秀雄との対談「歴史について」もいま無性に読み返したい。少しばかり、河上徹太郎を「鏡」にしてみようと思う。

車の運転、土地柄のちがい


当地(新潟県上越市)から、。郷里の岡山に戻るとき、上越高田インターチェンジから上信越道に乗って南下、北陸道に合流し、富山・石川・福井・滋賀を抜ける。米原からは名神道に入り神戸ジャンクションで山陽道に抜ける。上信越道は対面通行区間があるが、北陸道から山陽道は全ルートが片側2車線以上となり、走行は楽だ。

ところが、当地に越してきた当初、北陸道は富山県の朝日インターチェンジあたりまで片側1車線の対面通行区間だらけだった。自分が運転する車のすぐあとに、ビューンと大型トラックが迫ってきて、ひたすらパッシングを繰り返す。「とっととどきやがれ!」のサインである。そのうえ、「オラオラオラ!」という感じで蛇行運転する。

生きた気がしなかった。片側1車線では逃げ場所もない。こちらの車は日産サニー15周年特別仕様車1500ccである。アクセルを踏み切っても、家族5人と帰省荷物をたくさん積載した状態では、まったくスピードが出ない。パーキングエリアやチェーン装着用のパーキングゾーンに逃げ込むまで、命からがらの北陸道だった。そんな経験が何度もある。よく今日まで生き延びたものだ。

20年ほど前は茨城県のつくば市で生活していた。土浦ナンバーの車は右折するにしても左折するにしても方向指示のウィンカーを出さなかった。そればかりでなく、右折・左折時に横断歩道を渡っている歩行者がいたらクラクションをブーブー鳴らして蹴散らしていた。歩行者優先ではなく、あくまでも自車優先である。なぜか車体がへこんだ車が多いのも土浦ナンバーの特徴だった。

四国の愛媛、特に松山市内では「伊予の早曲がり」と呼ばれる風習(?)があるらしい。交差点での信号待ちのとき、前方が青信号に変わるのを待たずに右折車が発進し、直進車よりも優先して交差点を通過するのが習慣化しているというのだ。四国は何度か車で一周したことがあるが、香川・徳島は県外ナンバーの車に対して比較的やさしい運転をしてくれた。徳島県警が掲げていた「やわやわ走ろう徳島」というスローガンは好きだった。

ところが、徳島ナンバーの車が県境を越えて土佐の高知に入った瞬間に、高知ナンバーと徳島ナンバーのラリーが始まる。それもハンパではない。高知ナンバーの車は何とかして徳島ナンバーに追い抜こうとする。徳島ナンバーの車はそれを何とかして振り切って、逆列の先頭に出ようとする。「高知でもやわやわ走ろうぜよ徳島」と言いたくなる。同じような現象は愛媛県内でも見られる。四国四県、どうか仲良くやってもらいたい。

郷里の岡山に車で戻ったときにいつも感じるのは、自分が若いころとは運転の仕方が明らかにことなるなという印象だ。運転が荒くなった。粗暴である。確かに、岡山県内の道路事情は良くなった。そのことが逆に、変な競争意識やラリー意識を増大させているのではないかという気がする。12月初旬には、やはり上信越道・北陸道・名神道・山陽道で帰省する予定だ。ぼくは長岡ナンバーである。どうかやさしくしていただきたい。

2011年11月12日土曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(二)


 小林秀雄との対談記事がきっかけとなって、ぼくは河上徹太郎に注目した。河上徹太郎が小林秀雄と実際に対談を行ったのは1979年7月のことであったらしい。掲載誌『文學界』11月号は10月の発売である。河上徹太郎はすでに肺癌の一種に冒されていた。

 河上は9月に北里病院に入院し、10月には国立がんセンターに転院。年の瀬に退院して、それ以降は通院治療を続ける。翌年(1980年)の2月に『厳島閑談』(新潮社)が刊行される。また3月には『史伝と文芸批評』(作品社)が刊行。『厳島閑談』も面白く読めたが、河上徹太郎の本領は『史伝と文芸批評』の方によく発揮されている。

 ぼくが大学2年生になろうとしている頃の話だ。ぼくは何度か『史伝と文芸批評』を読み返した。当時はこの本をいつも枕元に置いていた。いまでも、ぼくのヘーゲル哲学の理解は、この河上徹太郎の著作に手引きしてもらったところから一歩も先に踏み出せていない。

 この『史伝と文芸批評』が結局、河上徹太郎の生前最後の単行本となった。『厳島閑談』、『史伝と文芸批評』と立て続けに2冊を刊行した河上は、3月15日に銀座の酒場で開かれた出版記念と快気祝いを兼ねたパーティーに参加する。しかし、この日、すでに国立がんセンターからは再入院の指示が出されていた。

 1980年(昭和55年)4月2日、国立がんセンターに再入院。それから何度か入退院を繰り返した。死去は9月22日15時5分だったという。ぼくが河上徹太郎という文人に強い興味を抱いてから丸1年も経過しないうちに、この文人は不帰の人となってしまった。

『史伝と文芸批評』の中に出てくる一節がぼくには忘れられない。「文章は自惚れ鏡ではないけれど、自分の文章ほど読んで面白いものはない。」という趣旨のことを書いてある一節だ。これは屈折した書き方をしているけれども、実は文章表現というものに関する重要な指摘だと思う。文章を書き手の立場から見る際に忘れてはならない条件に言及してくれている。

パッシング行為のなぞ


 昨夕、車を運転していると、対向車から「パッシング」を受けた。車をよくご存じない方のために補説すると、ハンドル付近のライトレバーを手前に倒すと、その間だけヘッドライトが点灯する。その操作を2~3回繰り返して、「パ・パ・パッ」という感じで対向車に合図を送るのが「パッシング」である。

「パッシング」は英語では‘passing’だ。これは、「通過中」や「追い越し」を意味する。したがって、語源的には高速道路等で、前方の車に「追い越しますよ」「追い越すから横にどいて」というような意味合いを伝えるのに用いられたのが、どうも「パッシング」の起源であるようだ。

 しかし、この「パッシング」は実はさまざまな役割で用いられる。対向車のパッシング、ぼくが若い頃の岡山県南部事情で言えば、二つの意味があった。一つは「この先で警察がネズミ捕りしてますよ」の警告。そしてもう一つは、昼間なら「ライト点けっぱなしですよ」、夜なら「ハイビームになってますよ」のサインである。

 それで思い出したのが、パッシングの東西差という問題である。例えば、交差点であなたは右折しようとしている。向こうから直進車が近づいてきてパッシングをする。それは何の合図か。それが関東圏と関西圏では異なるというのだ。関東圏では「お先にどうぞ」の意味でパッシングする人が多く、関西圏では「こっちが先に通り抜けるぞ。むやみに曲がるな」という意味でパッシングする人が多いのだそうだ。

 昨日の対向車のパッシングはいったい何であったのだろう。そろそろ暗くなっていたのでスモールランプは点けていたが、別にハイビームになっていたわけではない。だとすると警察の速度取り締まり(いわゆる「ネズミ捕り」)かと思ったが、結局、そうでもなかった。

 知り合いが「やあ、こんにちは」あるいは「こんばんは」の意味で送ってくれたパッシングかもしれない。しかし、現在乗っている車にそれほど特徴があるわけでもなく、ましてやうす暗い夕暮れのことだ。運転席にいるのがぼくであることをはたして見分けることができたのであろうか。

 実はぼくの車に向けてパッシングしたのではなく、先行車両や横から飛び出して来そうな自転車に向けた合図であったかもしれない。パッシングは多義的な「記号」として使用されている。だからこそ、パッシングを受けるたびに推論が必要だ。ぼくの謎はますます深まるばかりだ。

2011年11月10日木曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(一)


大学に入学したての頃、『群像』(講談社)、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『文藝』(河出書房新社)、『すばる』(集英社)の、いわゆる「五大文芸誌」を毎月買っていた。最初のころは、実に丁寧に読んでいた。そのうち、自分の気になる作品や記事だけになる。そうして数ヶ月もすると、買うだけで目次にも目を通さなくなっていく。それでも、『文學界』『新潮』『群像』の三誌は、かなり長い間買い求め続けたものだ。そこに何らかの気概があった。

ぼくを仰天させた対談記事が掲載されたのは、『文學界』の1979年(昭和54年)11月号だった。小林秀雄と河上徹太郎による「歴史について」というタイトルの対談である。小林秀雄の文章には、つとに魅力を感じていた。小林秀雄の文章表現を晦渋だ、難解だというひとがいるが、それは小林秀雄の文章を小林秀雄の立場になって読んでいないからだと思われる。ぼくも最初のうちは、自分の読むという行為が遮蔽されているような感覚を覚えた。しかし、それが錯覚であることはゆるゆるとわかった。小林秀雄の文章は実はわかりやすい。

小林秀雄には高校生のときからずっと興味があったものの、河上徹太郎の方は『日本のアウトサイダー』を文庫で読んだことがあるぐらいで、それまでほとんど興味を持っていなかった。ところが、大学入学の年の、前述した『文學界』11月号の対談記事を読んで、ぼくは小林秀雄以上に河上徹太郎という「文人」に強い興味を抱くようになった。その対談記事が掲載された『文學界』は今でもどこかに保管しているのだが、残念ながらすぐ見つからない。そのため直接引用ができないのが残念でならない。

ともかく、わけのわからない対談なのである。「歴史について」というタイトルは、実のところはこの対談記事の内容を端的に示しているわけでもない。二人の文人は、あるときは丁々発止と渡り合い、またあるときは互いにぬらりくらりと話題を逸らす。特に後半になると、おそらくアルコールのせいもあるのだろう、話題の飛躍の仕方は尋常ではない。相手の発言とはほとんど無関係に、自分が思いついたことや思い出したことを言葉にしていく。ところが、それこそが小林秀雄と河上徹太郎という二人の文人の関係性をとてもよく表しているのだ。「文人の交わり」とはこういうものなのかとぼくは憧れた。

昔のこと消せる消しゴム


テレビドラマ『北の国から '95 秘密』の中で、宮沢りえ演じる小沼シュウは「昔のこと消せる消しゴムがあるといい。」と言う。心に残るせりふだ。一方、黒板五郎(田中邦衛)は、シュウの《過去》への拘泥が捨てられない息子の純(吉岡秀隆)に対して次のように叱責する。このとき、純はゴミ収集の仕事をしており、自分の手についた臭いが嫌で、石鹸で洗ってばかりいる。

お前の汚れは、石鹸で落ちる。
けど、石鹸で落ちない汚れってもんもある。
人間、長くやってりゃあ、
どうしたってそういう汚れはついてくる。
お前にだってある。
父さんなんか汚れだらけだ。
そういう汚れは、どうしたらいいんだ、えっ……。

ぼくも「汚れ」だらけだ。そういった「汚れ」のひとつやふたつ、誰にだってある。これを読んで下さっているあなたにも多少はあるはずだ。しかしながら、そうした「汚れ」を抹消してくれる「消しゴム」はない。

もともと、ぼくたちは生まれついたときには純真素朴であったのかもしれない。いや、思春期を経てもなお、「自分だけは純真素朴だ」と信じ込みたいひとだって、たまにはいるだろう。しかし、自分の好きな相手を理想化するならともかく、自分自身を理想化してみても仕方がない。人間、年月が経てばゴミやチリやホコリがつくのは当たり前だ。

むろん、おのれの核とする部分に純真さや素朴さを位置づけておくのは悪いことではない。しかし、生きるとはそういった純真さや素朴さという核の周りに、たんまりとチリ・アクタを付着させることではないのだろうか。かつて話題になったお伊勢名物「赤福」のように、「アン抜き」や「モチ抜き」といった手法で賞味期限を誤魔化すことはできよう。しかし、そんな無理をしてまで、純真さや素朴さをアピールしつづける必要が人生のどこにあるのか。

汚れた者どうしということでいいではないか。それも含めて受け入れ合うことが大切なのではないか。無理をすることはない。人間、数十年も生きていれば、叩けばホコリの出る身体となるのは当然であり、そのホコリを誇りとせよとは言わないが、「お互い、すねに傷のある者同士、言いたくないことは聞かないぜ。」という『鬼平犯科帖』のせりふでいきたいというのがぼくの本音だ。

ぼくたちは過去に立ち戻ることはできないが、未来ならまだ少々ある。今を断ち切ることはできなくても、新しい今をやがてもたらす機会を創り出すことならできる。楽しい時間であっても苦しい時間であっても、人生に「無駄な時間」なんかはないように思う。また、「無駄」にしてはならないのだ。そういう意味では「昔のこと消せる消しゴム」なんかは必要ない。

2011年11月9日水曜日

「ジャネーの法則」改訂版


時間の心理的長さに関する経験則「ジャネーの法則」は、「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する」と定式化された。これだと48歳の自分が感じる時間の長さは、24歳のときの半分ということになる。しかし、ぼくとしては、この計算式は、ある年齢を超えてからの時間の流れの速さについて、見積もりが甘いという気がする。そこでぼくがいつも用いるのは、改訂版「ジャネーの法則」である。それは次のように表される。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の自乗に逆比例する。

「年齢の自乗に逆比例する」とは、「年齢の自乗の逆数に比例する」と言い換えてもいい。たとえば、10の自乗の逆数は0.01、20の自乗の逆数は0.0025、40の自乗の逆数は0.000625、のようになる。このとき、改訂版法則によれば、20歳のときの時間の流れ方は10歳のときに比べて4倍、40歳のときの時間の流れ方はやはり10歳のときに比べて16倍のスピードとなる。

つまり、今ぼくが48歳だとした場合、1日が流れる速度は、小学6年の12歳のときの16倍、高校教員をしていた24歳の4倍のスピードになる。ぼくにしてみればこの方が自分の直感には合っている気がする。あなたがもし今35歳だとしよう。大学を22歳で卒業したとする。大学生だったときの1日は今のあなたにとっての1日よりも2.5倍以上の長さがあったのだ。これが改訂版「ジャネーの法則」が示す数値である。もちろん、数値そのものに厳密な意味があるわけではない。電気力も万有引力も距離の自乗に逆比例するが、それら物理的計測数値と同じように心理的時間の長さの数値を絶対化してはならないだろう。

ただ、ぼくは改訂版「ジャネーの法則」(時間の心理的長さは年齢の自乗に逆比例する)をいつも心に留めている。1日の長さはどんどん短くなっていく。1年の長さはどんどん短くなっていく。ならば、自分はどうすればよいのか。今をどう生きればよいのか。問は常に明確である。しかし、いつもながらぼくのダメな点は、問に対する答をついつい保留してしまう点だ。「まあ、何とかなるさ。」とうそぶいて、日々惰眠をむさぼってしまう点だ。

改訂版「ジャネーの法則」によれば、ぼくの今と、30年前、20年前、10年前、10年後とを比べてみると、今は30年前の7.11倍、20年前の2.94倍、10年前の1.60倍のスピードで時間が流れている。10年後は今の1.46倍の速さになる。つまり、「年齢の自乗に逆比例する」という計算式を当てはめた場合、意識される時間の速さの加速度は次第にゆるやかになっていく。ぼくもゆるやかな曲線部分に入ってきた。「あとはまあ大して違わないだろう」などと舌を出すこともできそうだ。しかし、いま若い方々はどうかご注意あれ。ぼくと同じ失敗を重ねることなかれだ。人生における時間の濃度はけっして一定ではない。

2011年11月8日火曜日

Addonizio and Laux “The Poet's Companion” (2)


 日々、気が向いたら「しもどき」や「うたげ」や「くまがひ」をダラダラと書き連ねる。「詩擬き」「歌げ」「句紛ひ」であり、いずれも「もどきもの」「それ風なもの」「まがいもの」である。自分で書くものを「詩」や「ポエム」と呼ぶつもりはない。だが、何らかの「詩情(poetry)」を狙っていないわけではない。「詩的効果(poetic effect)」と呼んでもいい。

『詩人必携―詩を書く楽しさへの誘い』の指南はこんなぼくには実に役立つ。本書の中に置かれた「性愛を描く(Writing the Erotic)」の節では、次のようなアドバイスが記されている。ぼかすところはぼかしているが、本書のアドバイスは実に具体的である。

◆10分間、あなたの(もしくは他の誰かの)過去の出来事で、自分を何らかの形で性愛に目覚めさせてくれた、人生の中でより早く起きた出来事を何にも規制されないで自由に書くこと。リストの中から一つを選び、「最初のセックス」を自分自身の詩を書くためのモデルとして活用すること。言葉の置き換えも試してみること。
◆自分にとって性愛的なものをリスト化すること。例えば、身体の部分や、伝統的なものと非伝統的なもの、食事、物、衣服、言葉、臭い、音。さまざまなカテゴリーの中から7個から10個の語を選んで、それらから詩を作ってみること。
◆淫猥な詩、自分が卑猥だと思うものを書いてみること。その定義は自分自身で行うこと。「性愛的」と「淫猥」の区別についてここで述べるつもりはない。ただ例外的に言えば、これまで耳にしたことのある最も素敵な区別の仕方は、「性愛はわたしが好きなもの。淫猥はあなたが好きなもの。」というものだ。

 ぼく自身の構想の中では、語用論(pragmatics)と詩学(poetics)は密接に結びついている。詩的効果は「詩だけに独占的に与えられた効果」ではない。詩は、日常言語が持っている語用論的効果を巧みに制御しているというだけの話だ。

 日常言語と詩的言語(文芸言語)の間に、何らの隔絶もない。問題になるのは言語使用者(表現者と理解者)の態度なのである。「詩として書く」、あるいは、「詩として読む」――そうした姿勢の中に「詩」が「詩」として成立する駆け引きがある。その種の駆け引きは何も詩をはじめとする文芸だけの話ではない。

「ジャネーの法則」原典版


 すでに11月を迎え、今年も残すところ2ヶ月足らずだ。早い。つい先日2011年になったような気がするのに、あっという間に10ヶ月以上が経過した。例によって無為徒食の10ヶ月であった。どうして、かくも時間の過ぎ去るスピードは速いのだ。どこかにスピード調整のつまみはないものか。

 意識される時間の早さについては、「ジャネーの法則(Janet's law)」が有名だ。いわゆる「時間の心理的長さ」に関する経験則である。『ミネルヴァ心理学辞典』によると、「ジャネーの法則」は次のように述べられている。

 生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する。

 この法則は、もともとは哲学者ポール・ジャネー(Paul Janet: 1823-1899)が語ったものを、その甥にあたる心理学者のピエール・ジャネー(Pierre Janet: 1859-1947)が著書『記憶の進化と時間観念』(1928年)の中で紹介したものらしい。

 この「ジャネーの法則」によれば、年齢の逆数(1/x)を単純に採用することになる。心理的な時間の長さが「年齢の逆数に比例」するなら、10の逆数(1/10)は0.1、20の逆数(1/20)は0.05、40の逆数(1/40)は0.025、のようになるため、20歳のときの時間の流れ方は10歳のときに比べて2倍、40歳のときの時間の流れ方はやはり10歳のときに比べて4倍のスピードとなる。これが本来の「ジャネーの法則」である。

 仮に現在、ぼくが48歳だとしよう。6歳のときは幼稚園児、12歳のときは小学校6年生、24歳のときは高校の教員をしながら、夜はアマチュア演劇や詩の朗読に入り浸っていた。さて、48歳のぼくが感じている時間の流れの速さは、「ジャネーの法則」に従えば、幼稚園児のときの8倍、小学6年生のときの4倍、24歳のときの2倍のスピードということになる。

 ぼくとしては、その尺度は何となく甘く見積もりすぎている気がする。いかがなものだろう。実はもっと心理的時間の尺度はシビアではないのか。そこでぼくは、「ジャネーの法則」改訂版という尺度を採用することにしている。詳しくは、明日書くことにしよう。

2011年11月7日月曜日

Addonizio and Laux “The Poet's Companion” (1)


 ぼくは「ポエトリー(poetry)」という集合名詞的な呼び方が好きだ。一篇一篇の作品は「ポエム(a poem)」ということになる。ぼくが書き散らすようなものは「ポエム」とは呼べない。近似しているとしても、それはあくまでも見せかけのことだ。詩に擬した表現を気取っているだけ。つまり、「しもどき」にすぎない。だが、「しもどき」であれ、どこかで「ポエトリー」に通じる(その一部領域をかすめる)部分はあると思っている。

『詩人必携―詩を書く楽しさへの誘い』(Addonizio, Kim and Dorianne Laux. The Poet's Companion: A Guide to the Pleasures of Writing Poetry., W. W. Norton and Company. 1997)をパラパラと読んだ。本書は詩作品の実例を挙げながら、それを著者たちの思考の有効な手掛かりにしながら論が進められていく。

 類書は少なくないが、本書の潔さは、「詩(poetry)」というものをそれほど偉大な芸術だとは見なしていない点である。例えば、「書くことと知ること」と題された節の中に「書くためのアイデア」という箇条書きコーナーがあるのだが、その中に次のようなアドバイスが記されている。

◆毎日、ある一定の規則に従って何を行っているか?、シャワー、ジョギング、料理、そういった詩を書いてみよう。その詩の中では、同じ行為をするにも他の人はやってなさそうな、自分ならでは特別なやり方に目をつけてみよう。
◆好きなことは何か? 嫌いなことは何か? それを2列に分けてリストアップしよう。そして、自分が好きなことと嫌いなことを結びつけた詩を書いてみよう。
◆「私は知らない……」という表現で詩を書き始めてみよう。自分が知らないことがいくつもリストアップされるだろう。そうしたらその中のどれかに焦点を合わせる。

 このような感じで、実に指示が具体的だ。ただそうやって作り上げられる個々の文章が常に「詩(poem)」でありうるかどうか、ぼくには自信がない。ただ、書いた本人がそのつもりなら、その文章は「詩的作品(poetic work)」ではありうるだろう。「詩」なんてものは、その程度の融通の利く自己確信があれば、それでいい。

「誠意って、何かね?」


 例えば、口先では反抗しながら、心の中では「母さん、ありがとう」と唱えていたとしよう。このケースでは社会的には誠実ではないが、認知的には誠実である。あるいは「なんだ、このクソじじい」とむかついたが、取りあえず丁寧に謝っておいたとしよう。これは社会的には実に誠実だが、認知的な誠実さを伴っていない。

 こういう例もある。眠っている息子の髪をやさしくなでて、「さっきはごめんね」と小声で語る母親。いちおうその子に対する「誠実な表現」を声に出して表現してはいるものの、眠っている相手に伝わらない。こういうケースでも、社会的な誠実さは満たしていないと言えよう。

 このように、「認知的誠実さ」と「社会的誠実さ」とは区別できる。前者は当の本人の心中に自ずと湧き起こる誠実さであり、それは外部に向けて表現されない限り隠蔽されている。一方、後者は相手に対しては「誠実な表現」を採っているが、実際それが表現主の本当の思いを反映しているとは限らない。

「誠実さ」という問題を考えるとき、いつも頭をよぎるのが、『北の国から '92 巣立ち』に出てくる菅原文太のせりふだ。トロ子というあだ名で呼ばれるタマコ(祐木奈江)は、黒板純(吉岡秀隆)と付き合ううちに妊娠してしまう。

 純の父・五郎は北海道から飛行機で駆けつける。純から事情を聴き、「とにかく頭を下げて謝ろう」と純を力づける。そうして二人は連れ立って、豆腐屋を営むタマコの叔父のもとに詫びを入れに赴く。

 五郎の手土産はいくつかのカボチャだった。五郎と純はひたすら頭を下げる。そんな五郎に対して菅原文太は言う。

「誠意って、何かね? あんたにとっては、遠くから飛んできて、恥を忍んで頭を下げてる。それで気持ちは済むのかも知れんがね。もしも実際、あんたの娘さんが、現実にそういう立場に置かれたら……。もういい。わかった。これ以上話しても始まらん。」

 ぼくは誰かとお酒を呑むときに、この「誠意って、何かね?」というせりふでよく遊ぶ。まことに便利なせりふで、深刻な場面でも当然使えるし、皆で笑い転げているような場面でも使える。会話が滞って場がシーンとしたときなど、いきなり「誠意って、何かね?」と太い声で口走るだけで会話の接ぎ穂になったりもする。

 とかく「誠意」や「誠実さ」というのはむずかしい。社会的にも認知的にもむずかしい。こちらが誠意を尽くしたつもりでも、先方にはそのようには受け取られないことがある。相手の言動が誠実さを伴ったものか否か判定できないこともある。「わたしは誠意のない不誠実な人間である」と、呑むと真剣に語る人がいる。この人の言葉はそのとき誠意と誠実さに充ちている。

2011年11月5日土曜日

俵万智『サラダ記念日』


 ご存じの通り7月6日は「サラダ記念日」である。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智の短歌集『サラダ記念日』が出版されたのは1987年(昭和62年)5月のことだ。その前年に角川短歌賞を受賞。俵万智というのは本名である。1962年(昭和37年)12月31日、大阪府生まれ。その後、福井県武生(たけふ)市(現在は越前市)で少女期を過ごす。福井市内にある県立藤島高等学校に通ったが、武生から藤島高校に通う際、「田原町(たわらまち)」という駅を利用した。自分の名前と同じ読み方の駅である。

高校卒業後、俵万智は早稲田大学第一文学部国文科に進学する。高校のとき演劇部だった彼女は、大学では「アナウンス研究会」に入る。また、歌人で研究者の佐佐木幸綱に師事して短歌の創作を始めたのも大学生のときからだという。俵万智自身が歌人として作品を世に問うようになったのは、神奈川県相模原市橋本にある県立橋本高等学校勤務中のことだ。俵万智は国語科教諭だった。有名な次の短歌が『サラダ記念日』には収められている。

万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

俵万智の『サラダ記念日』が刊行されたころ、ぼくはぼくなりに、「青春」と呼べる時代が過ぎつつあるということを意識していた。高校の国語科教諭を辞して修士課程の大学院生の身となったぼくには、日々の時間の流れはぼんやりとしたものに感じられた。そんな中で『サラダ記念日』を書店で手にした。こんな短歌があった。

青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる

その後、数年が経過して日本海側に移り住んでから、季節を問わずよく海を見に出掛けるようになった。そんなとき、沖を眺めながら『サラダ記念日』の中の次の短歌をよく反芻する。

今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海

ともかく7月6日は「サラダ記念日」なのだ。実は、「七月六日はサラダ記念日」という短歌によって「記念日」という名称が広く一般に定着したのだという。そうした理由で、7月6日は「日本記念日学会」によって「記念日の日」とされている。「記念日の記念日」、すなわち、「メタ記念日」である。

その後、俵万智はシングル・マザーとして生きる道を選ぶ。神奈川県の県立高校の国語科教諭のままならどういう将来であっただろうか。「青春」という文字は確かに横線が多いが、縦線も斜め線もちゃんと混じっている。桂馬飛びの人生も悪くない。

「東京卒業」を決めたあの夜


『北の国から '92 巣立ち』のタマコ役・祐木奈江は可憐だ。渋谷道玄坂あたりのラブホテルで純(吉岡秀隆)とタマコは結ばれる。その寸前まで高倉健主演の『南極物語』のビデオが流れていた。純はその画面に見入るタマコを見て、健さんに嫉妬するのであったが、視聴者側のぼくとしては当然、吉岡秀隆に嫉妬してしまうわけだ。

 トロ子というあだ名をもつタマコは、純とそうした付き合いをしているうちに妊娠してしまう。純の父・黒板五郎は北海道からカボチャを持って上京する。豆腐屋を営むタマコの叔父(菅原文太)は、そんな五郎を威喝する。かくして若い二人に別れがやってくる。ブランコのある小さな公園。郷里の鹿児島に帰ることを決意したタマコが言う。

「東京はもういい。あたし、卒業する。……純君とのこと、楽しかった。あたし全然、後悔してないから。」

「東京卒業」――これは、ドラマシリーズ『北の国から』を通して一貫しているひとつのサブテーマである。

『北の国から '95 秘密』では、宮沢りえ演じるシュウが複雑な役柄を切なく演じている。純は、自分と同じく東京から北海道へ戻ってきた過去を持つシュウに、「東京は楽しかった?」と尋ねる。シュウは「……うん……。そっちは?」と言葉を濁す。この問に対して純は次のように答える。

「卒業した……。東京は、もう。」

 ぼく自身が「東京卒業」を決意した日のことは今もはっきりと覚えている。1993年11月19日のことであった。時刻は22時ごろである。これほど明確に日時を特定できる人間はそう多くないと思う。東京・三軒茶屋のビルと首都高の高架との間から見える星空を見上げて、ぼくは「東京はもう卒業だな」と思った。もう思い残すことはない気がした。失意からではない。満足感からであった。

 この夜、そのころ勤めていた大学の敷地内にある人見記念講堂でフリードリヒ・グルダの公演があった。アンコール演奏の最後の曲は、グルダ自作の「アリア」であった。演奏後もしばらくホールの中に留まった。観客最後の一団に混じって外へ出た。会場の中は熱気にあふれていたので、11月の夜風はかなりひんやりと感じた。しかし、心の中はあたたかさに充ちていた。

そのときぼくの頭に浮かんだのが、「東京はもう卒業してもいいな」という感覚だった。人見記念講堂がある大学には「5年間は連続勤務する」という条件で雇用されたのだったが、ぼくはその契約を破って4年で別の大学に移る決意をした。それがぼくにとっての「東京卒業」となった。やや身勝手な「東京卒業」である。

2011年11月4日金曜日

相田みつを『にんげんだもの』


 昨今の国語の授業では、星野富弘や相田みつをなどの作品が採り上げられることも多い。星野や相田が書き残している言葉に、特段、解釈の困難点は見られない。むしろ、解釈そのものよりも、それを飛ばして、己れの人生観とどのようにつなげて読むかということが問われる。

 星野富弘も相田みつをも、単純に「詩人」と呼ぶことはできない。まず、相田みつをの場合、毎日書道展系の「近代詩文」で、まずは「書」としての価値が前面にある。相田は、毎日書道展で、最初は「漢字(第一部)」で入選するが、その後、「墨象美術(第三部)」に転向、さらに、その後、「近代詩文(第四部)」に転向して、そこに落ち着く。

 相田が書いている言葉。あれは「詩」と称するよりも「禅語」と呼ぶのがふさわしい気がする。しかも曹洞宗系の禅語だ。相田は短歌をやっていたのが縁で、曹洞宗の老師と出会ったという話だ。おそらく少なからず影響を受けているだろう。

 かたや、星野富弘の場合。彼はたしかに「詩画」と自称しているので、そのことから見ても、言葉の部分は「詩」であることを意識しているのだと思う。初期の作品に比べると、やはり時代を経るにしたがって、言葉の部分がしだいに詩らしくなってきたような気もする。

 だが、やはり、口に絵筆をくわえて描いた花の絵と切り離して、詩の言葉だけを問題にできるまでには、「詩」そのものが自立していない感じがしてならない。また、彼の「詩」は、聖書の「聖句」に裏打ちされた「宗教詩」という側面が強い。「天上の神のみこころのまま」というのが共通テーマだ。だから、どうしても解釈の方向が未然に制限されてしまっている。そこが鼻につきはじめると鼻につく。

 相田の「禅語」も、星野の「宗教詩」も、どちらも平明な言葉で書かれているので、言葉それ自体の解釈という点では、もはや、わざわざ教室の中でみんなで知恵をしぼり合って一斉に議論するというような必然性が、ぼくにはあまり感じられない。むしろ「国語」の時間を超えた場面で議論すべきだろうと思う。

あの夜のあの「アリア」


 1993年11月19日、今は亡きフリードリヒ・グルダの公演が、東京・三軒茶屋の人見記念講堂で行われた。このホールは、その当時勤めていた職場の施設である。開演前から会場は熱気に包まれていた。グルダの来日は1969年以来3度目である。ぼくは上手側15列目ぐらいのシートだった。

 1曲目はグルダ自身も最も愛好していたと言われるモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)。共演は新日本フィルハーモニー交響楽団。面白かったのは第1楽章の演奏が済んだとき、新日フィルの楽団員たちに「リラックス、リラックス」というサインをグルダがユーモアたっぷりに送ったことだった。コンサートマスターには深呼吸をするようにジェスチャーで指示した。会場は笑いに包まれた。

 モーツァルトのあと、クラヴィノーバを用いたバッハなどの小品がいくつか。そして、いよいよグルダ作曲のピアノ協奏曲「コンチェルト・フォー・マイセルフ」。この曲は、意気消沈したときにぼくがいつも聴く曲だ。グルダのピアノは、あるときは囁き、あるときは強く語り、あるとき踊り、あるときは眠った。そのドライブ感覚に新日フィルもよく付いていったと思う。曲のフィナーレ後、グルダも楽団員もみんな笑顔だった。こんなコンサートはざらにあるものではない。

 万雷の拍手。「ブラヴォー」の声々。指笛。歓声。みんなこぞってスタンディング・オーベイション。座ってる場合ではなかった。拍手はみんな頭の上でやっている。それから続くアンコールの数々。これでもか、という感じでグルダもアンコールの要請に応えてくれる。当然、グルダお気に入りのショパン「舟歌」も弾かれる。これまた当然、「はい、これで最後ですよ」という感じで「辻馬車の歌」も弾かれる。しかし、聴衆は納得しない。アレが演奏されなければダメなのだ。

 アレとは、グルダ作曲の珠玉の名曲「アリア」である。何度も舞台の袖に引っ込んでは、拍手と指笛と歓声によって舞台に引き戻されるグルダは、「じゃ、ホントに最後だよ。何が聴きたい?」と尋ねる。会場一同、声をそろえて「アリア!」。「誰のアリア? ぼくのでいいの?」と、グルダ定番の冗談を言った後、グルダは鍵盤の前に座る。会場は水を打ったように静まる。やがて始まる「アリア」の演奏。至福の時間であった。

「アリア」をグルダ自身の生演奏で聴くのは初めてだった。演奏が終わった後、ぼくは半分放心状態だった。聴衆たちは立ち上がったまま拍手と指笛と歓声をずいぶん長い間続けた。そのうち、ステージのライトが落とされ、客席が明るくなり、出口の扉が開かれた。ぼくは自分のシートに座ったまま、しばらく心の余韻を楽しんでいた。そんなひとが会場の中にはたくさんいた。

2011年11月3日木曜日

G. ユール『プラグマティックス』


 言語学に「語用論(プラグマティックス:pragmatics)」という探求姿勢・研究方法がある。語用論の入門書・概説書として最も優れているのが、言語学者ジョージ・ユール(George Yule)の“Pragmatics”である(邦訳:高島正夫〔訳〕『ことばと発話状況―語用論への招待』 リーベル出版)。

 その中でも触れられているが、語用論はかつて「言語学のくずかご(wastebascket)」と呼ばれた。今も一部の言語論者は、語用論への不信感や猜疑心を隠そうとはしない。それはそれでいいとぼくは考えている。

 このくずかごの中の世界は、外部の人が嗅ぐと、ちょっと饐えた臭みがあるかもしれない。しかし、ぼくにとってはかなりフルーティーなフレーバーだ。ビッグなプラグマティシャンたちの柔軟な発想に日々驚嘆しつつ、今日も己れの固い頭を叩き回しているというのが実際のところだ。

“Pragmatics”の中でジョージ・ユールは、「言語学の諸分野のうちで、語用論だけが人間的なるものに立ち入ることができる」という趣旨のことを記している。ぼくたちは時代遅れの歪んだヒエラルキーや権力構造から解放されて、同じ人間同士として話がしたいものだ。そうした自分の試みを支えてくれているのが語用論である。

 さまざまな状況に置かれた、さまざまな学生の、さまざまな自己吐露の言葉を笑顔で聴き入るとき、ぼくは語用論的なるものの重要性をさらに強く感じる。言葉の向こうには人間の心がある。言葉に伴って人間の表情がある。そうした当たり前のことを、構造言語学ではうまく取り扱えない。さまざまなものが「くずかご」に捨てられた。ぼくは「くずかご」を愛する。

 その証拠に、ぼくの居住空間も「くずかご」と化している。宿舎の自室にしろ、大学の研究室にしろ、乱雑極まりない。まさに「くずかご」、いや、むしろ「ごみだめ」と言った方がいいかもしれない。が、こうした様相を呈しているのも、語用論を求める心性が自ずと招来しただとお茶を濁す手もある。だが、「くず」の中には宝もある。「ごみ」の中にはぼくを新しい見方に導いてくれる骨董もある。検索効率は確かに悪いのだが、ぼくは自分の部屋が大好きである。

「懐かしいG.の訪れ」


 おそらく十代終盤からこの年齢に到るまで、ぼくが最も多くの回数を聴いたピアノ曲は、フリードリヒ・グルダの「アリア」であろう。事あるたびにこの「アリア」に立ち戻った。グルダ自作の名曲である。グルダ作曲のピアノ小品では、わが子のために創作した「パウルのために」や「リコのために」もいい。グルダの子息であるパウルもリコも、成長してピアニストとして活躍し、マルタ・アルゲリッチとの共演コンサートも行っている。ちなみにグルダの二番目のおつれあいは日本人で、うちの長女と同じ読みの名前である。

 ぼくがグルダの「アリア」と出逢ったのは十代の終わりであった。親友が持っていた“Message From G.”という6枚組のLP(国内販売は『メッセージ・フロム・グルダ』というシリーズ名でI・II・IIIの各2枚組3セット)に収められていた。残念ながらこの怒濤の実況録音盤はまだCD化されていない。とにかく何でもありの演奏が続く。グルダが提唱する「フリー・ミュージック」が活き活きと体現された名盤だ。

 この中に収められた「アリア」の演奏は貴重である。国内盤では3枚目のB面だ。グルダは左手でピアノを、右手でクラヴィコードをチェンバロ風に弾いている。そのようにして奏でられる「アリア」の美しいこと、美しいこと。演奏の最後あたりで、「これがいわゆるダ・カーポだよ」とボソッとしゃべる。そのグルダのユーモアあふれる解説に、聴衆から笑い声があがる。たちまち第一動機に戻って情感たっぷりのフィナーレを迎える。聴衆は泣き笑いの状態に置かれる。あとは黙って珠玉の旋律と演奏に酔うしかない。

 グルダは2000年1月27日に他界した。その前年3月、彼は自分が死去したというウソの情報をわざと流し、マスコミを騒がせる。しかし、その数日後にグルダは「蘇生」する。そうして、自ら「復活」を祝うコンサートを開催して世間の物議を醸した。こうした社会に対するある種の不誠実さがグルダの魅力である。『メッセージ・フロム・グルダ』はCD化されていない。今夜は久しぶりにレコードプレーヤーとアンプに火を入れて聴くことにしよう。『メッセージ・フロム・グルダ III』のキャッチコピーは「懐かしいG.の訪れ」である。

2011年11月2日水曜日

三木清『語られざる哲学』


 三木清といえば、すぐに『人生論ノート』ということになりがちだが、実は『語られざる哲学』(講談社学術文庫)もそれに劣らず面白い。『読書と人生』(新潮文庫)の巻頭に収められた「我が青春」と題されたエッセイを三木清は次のように書き始めている。

「去年の暮、ふと思い附いて昔の詩稿を探していたら『語られざる哲学』と題する旧(ふる)い原稿が見附かった。百五十枚ばかりのもので、奥書には『千九百十九年七月十七日、東京の西郊中野にて脱稿』と誌してある。あの頃は九月には新学年が始まることになっていたから、ちょうど大学の二年を終えた時で、私の二十三の年である。」

その二十歳過ぎの年齢で書かれた『語られざる哲学』の冒頭部分において、三木清は次のように述べている。

「懺悔は語られざる哲学である。それは争いたかぶる心のことではなくして和らぎへりくだる心のことである。講壇で語られ研究室で論ぜられる哲学が論理の巧妙と思索の精緻とを誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないように努力する。語られる哲学が多くの人によって読まれ称賛されることを求めるのに反して、語られざる哲学はわずかの人によって本当に同情され理解されることを欲するのである。」

何とすてきな語り起こしの仕方ではないか。「和らぎへりくだる心」。「純粋なる心情と謙虚なる精神」。忘れないようにしたいものだ。若き日の三木清の言葉だが、だからこそキレイゴトに満ちている。そこに輝きがある。

三木清は、大正11年(1922)、25歳のときに岩波茂雄からの資金援助を得てドイツに留学し、ハイデッガーに師事する。岩波茂雄は大正2年(1913)に神保町で古書店の営業を開始し、当時一般の値切り商法ではなく「正札商法」で読書子のココロを捉える。茂雄念願の出版事業のさきがけは、夏目漱石の『こゝろ』だった。漱石自身が凝りに凝った装幀を施した同書は快調な売り上げとなり、書肆・岩波書店の屋台骨を支えることになる。

青もまた白いのである


 虫の声がベランダの外から響いてくる。もうかすかな声だ。秋が到来した頃の音量や勢いはもはやない。秋も深まってきたということだ。

「むしのこえ」という小学校唱歌がある。「あれ松虫が、鳴いている/ちんちろちんちろ、ちんちろりん」の、あれだ。「あれ鈴虫も、鳴きだした/りんりんりんりん、りいんりん」と続く。そして、「秋の夜長を、鳴き通す/ああおもしろい、虫のこえ」で第一番終了。

 子どもはしばしばこの「ああおもしろい」を「青も白い」と聞きなす。子どもなりに不思議に思う。「なぜ青が白いのだろう」。そう考える。実はぼくもそういう幼児だった。歌は「むしのこえ」ではなかったが、発想は同じだった。

 幼稚園には一年間だけ通った。あまり愉快な思い出はない。ぼくは暗い幼稚園児だった。特に雨の日のことを思い出すと、今でも心がへしゃげる思いだ。雨の日は憂鬱だった。「おうちのひと」のお迎えが必要だったからだ。ぼくは毎回最後の最後まで取り残された。

 それはともかく、この幼稚園では毎日の「かえりの会」で「手をたたきましょう」という歌を唄った。。「かえりの会」は、雨天を除く毎日、園庭で行われた。園児たちは園庭に組ごとに整列。並び終わるや「手をたたきましょう」の合唱である。

歌い出しは「手をたたきましょう」。そのあと、「タンタンタン タンタンタン」と続く。「足ぶみしましょう タンタンタンタン タンタンタン」だ。「笑いましょう アッハッハ」のフレーズが繰り返されて、コーラスの最後は「ああおもしろい」となる。

その「ああおもしろい」の歌詞が、当時のぼくには「青も白い」と聞こえた。そう理解して唄っていた。ほぼ毎日である。思い込みというのは本当に恐ろしい。「アッハッハ アッハッハ」と言っているのだから、「ああ、面白い」と理解すればいいものを、人間というのは不思議なものである。

 何とも理不尽な歌だとぼくは内心訝しく思っていた。「青」が「白」であるとはいかなることか。そんなケッタイなことが世の中にはあるのか。これには何か深い奥の意味があるに違いない。だが、その奥の意味がわからない。言葉は言葉として放置され、その放置された言葉をぼくは毎日の「かえりの会」で唄わされていた。

2011年11月1日火曜日

ウォルツァー『寛容について』


 マイケル・ウォルツァー(Michael Waltzer)の『寛容について』(みすず書房、大川正彦〔訳〕、2003年:原著 On Torelation. Yale University Press. 1997.)を久しぶりに取り出した。「序文」の中に次のような印象的な表現が出てくる。

「寛容は生(ライフ)そのものを支える。なぜなら迫害(パーセキューション)はおうおうにして死を招くのだから。さらに寛容は共同の生(コモン・ライブズ)、つまりわたしたちが生きているさまざまに異なる共同体を支える。寛容は差異を可能にし、差異は寛容を必要不可欠なものにする。」

 あるいは、「寛容についてどのように書くか」というタイトルをもつ序論では次のように述べられる。

「わたしの主題は寛容である。もうすこしうまくいえば、たがいに異なる歴史・文化・アイデンティティをもつ人びとの集団の平和共存、である。これこそ寛容が可能にしてくれるものなのだ。」

 アメリカの政治学者であるウォルツァーは、本書の中で多文化主義社会における「寛容」の条件について、政治編成のありかたに従って分類し、それぞれの歴史と未来を検討する。そうした議論を通じて、「寛容」は(政治編成ごとに異なる)政治的な調整実践であり、個人の行動原理などではないと結論する。

 それはそうだが、社会は個人の集まりとして何らかの集団らしさを構成し、個人はそうした社会の中でその人間らしく生きていくしかない。ならば、「寛容」という問題を考える際にも個人の認知的条件や社会的条件は外すことができない。

 親に虐待されて成長した子どもは、すぐカッとしたり興奮したり暴力的行動をとったりしやすくなるのだという。これは家庭(親子)という社会の中で取り結ばれた人間関係が、その子どもの認知に対して「非寛容」を植えつけてしまったのだと見ることは可能であろう。

 個人は社会的条件の制約のもとにあり、社会は成員一人ひとりの認知的条件の相互作用によって制約を受ける。非寛容の事例はどんな社会集団でも容易に観察できる。「相手の自由裁量権を認める」という点だけでは、ぼくの「寛容」の内包としてはまだ不十分だ。「寛容」は相手の高慢なわがままをそのまま受け入れることではない。

百歳ちがいのマーラーは問う


グスタフ・マーラーが生まれた1860年と言えば、日本では安政から万延に改元される年だ。咸臨丸がサンフランシスコに到着し、桜田門外の変で井伊直弼大老が殺害され、エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に就任した年である。

大江健三郎の快作『万延元年のフットボール』は、その1860年(万延元年)と百年後の1960年とが寓意的な対照性を保ちながら語られる。1960年と言えば安保闘争の年だ。ぼくが生まれたのもその1960年であった。ぼくはマーラーの百年後に生まれた。

百年の差だと計算がしやすい。ぼくはマーラーにのめり込んでからというもの、自分の年齢のときにマーラーが何をしていたかが気になった。例えば、マーラーが第一交響曲を完成させたのは1888年3月である。マーラー27歳。初演は1889年の終わり。マーラー29歳。ちょうどぼくも28歳から29歳にかけて、自分の生き方の屈折点に差し掛かっていた。

その頃は「タイタン」という標題が付けられたこの第一交響曲を意識的に繰り返し聴いた。そうすることで自分を鼓舞しようと思った。この処女交響曲の初演の際、聴衆は戸惑い、評論家も非難の嵐をマーラーに向けたという。そうした逸話がぼくの心の支えにもなった。

マーラーについて語る多くの人が、『大地の歌』や交響曲第九番からこの作曲家に取り憑かれるようになったと回顧する。ぼくも同じだ。どちらの作品も初演はマーラーの死後のことである。マーラーを知った最初の頃から現在に到るまで、『大地の歌』や第九交響曲は聴き続けている。アナログLP、CD、DVDのコレクションも続けている。

ケン・ラッセル監督の『マーラー』という映画(1974年)の後半では、マーラーの《家族の中の孤独》がかなり誇張されて描かれている。最愛の妻アルマと最愛の娘たちに囲まれた日々。しかし、マーラーの頑なさはその愛の恩恵に背を向ける。家族が幸せであればあるほど、自分はその一員ではないという焦りを覚える。そこにあるのは隔絶感と孤立感だ。そこでマーラーが味わっているのは、人生のディアスポラ感覚である。

このあたり、ケン・ラッセルの『マーラー』での描き方はいささか純朴すぎるような気もする。だが、さすがはケン・ラッセル監督。映画では、マーラーが列車の中で迎える人生の最後で、個人としてのディアスポラ感覚を超えた、より大きな純朴さへと回帰していく内面が描かれる。それはマーラーの交響曲で言えば、第八番第二部の天使の合唱と、第九番第4楽章の終末部とが同時に奏でられる感覚である。

マーラーが1908年に第七交響曲を自ら初演したとき、その評判はさんざんだった。しかし、マーラーはおそらくそんなことは最初から見通していたはずだ。マーラーはこの交響曲が完成したとき、友人の音楽学者グイード・アドラーに“Septima mea finita est”というラテン語のメッセージを書き送ったという。「我が第七は完成せり」という意味である。マーラーは何かを突き抜け、何かにきっぱりとした形を与えたということだろう。

満50歳でマーラーは死去した。ぼく自身はその年齢を過ぎてしまった。当然のことであるが、死は近づきこそすれ、遠ざかりはしない。自分と百歳ちがいのマーラーの交響曲や歌曲を聴きながら、ぼくは内省的にならざるをえない。ぼくは何かを突き抜けたであろうか。何かに形を与えうるであろうか。破綻を破綻のままで提示できるだろうか。マーラーを聴き続けるのは、自分に対して問を発し続けることでもある。

2011年10月31日月曜日

フィッシュ『このクラスにテキストはありますか』


 ここ十年ぐらい、ぼくのクラスではテキストを使わなかった。いいテキストがないわけではない。よくまとまったテキストはある。穏健な内容のテキストもある。たまには手前味噌に終始するテキストもある。それぞれ良い点もあれば悪い点もある。概説書というのはそういうものだろう。ただ、概説書なるものの欠点は、学生当人が考える前に「答」がそこに書かれてしまっていることだ。

十年の間、せっせと自前のプリントを用意したものだ。パワポのスライド上映をしながらレクチャーを進めることもあった。しかし、やがてどちらもしなくなった。プリントやスライドが事前に準備されていると、ぼく自身もそのあらかじめ定まった流れで話を進めるしかなくなるからだ。もう少し自由にクラスの中で語り、つぶやきたい気がした。

プリントやスライドに依存すると、その結果として、どうしても単調な淀みがクラスに漂い、学生たちは次々に眠っていってしまう。受講学生をこぞって眠らせる上では、文字ばかりのスライドがもっとも有効なようである。逆に、展開や答が事前に提示されていない場合、予想もしなかった方向に受講学生がぼくを導いてくれる。そこに緊張感が走る。

スタンリー・フィッシュの名著に“Is There a Text in This Class?: The Authority of Interpretive Communities”がある。みすず書房から1992年に、小林昌夫氏の訳で『このクラスにテキストはありますか 解釈共同体の権威』という邦訳が出されている。しかし、残念なことにこの邦訳書は原著の全訳でなかった。「解釈共同体」というアイデアで牽引されていくフィッシュの読者論批評は見事である。本書は語用論的思考のためのよきガイド役でもある。

ぼくのクラスには「テキスト」はない。しかし、「テクスト」はある。同じものが大量にコピーされた「テキスト」は学生の机の上にはない。しかし、ぼくが語り、学生がそれに応じることで編み上げられていく「テクスト」は心的に実在する。そのうちのある部分は、黒板に断片的表現としてメモ書きされていく。学生はその黒板のメモ書きに基づいて、自分自身のノートの上に、クラスの中にそのとき満ちている「テクスト」への手掛かりを記しおく。

「先生のクラスにテキストはありますか?」――そう言って、誰か学生が尋ねに来てくれるとうれしいのにな、と思う。前述したフィッシュの名著も、学生のそうしたひと言から語り起こされている。つまり、フィッシュは、十分に学生の些細な呟きに耳を傾けていた。ぼくもまたそうでありたい。つぶやきや語りかけに充ちた時間を過ごしたい。

破綻を破綻のままで提示する


 グスタフ・マーラーは1860年7月7日、オーストリア領ボヘミアの小さな村に生まれた。息子の音楽才能を儲けの種としか思わない放蕩者の父と、12人の子を出産した母マリーの間に産まれた2番目の子どもがマーラーだった。彼はその父を憎み、家族を捨てて、15歳のときウィーン音楽院に進む。

 彼は「オーストリアにおけるボヘミア人」、「ドイツにおけるオーストリア人」、「世界におけるユダヤ人」として、根無し草的、ディアスポラ的な心性を終生抱き続けたと言われる。宗教についても、37歳のとき、ウィーン宮廷歌劇場指揮者に任命されるに先駆けて、ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。

 マーラーの生誕日7月7日に、彼の第七番交響曲を聴くことは、ぼくにとっては一つの重要な儀式である。マーラーは1911年5月18日に死去した。よく知られている通り、最期の言葉は「モーツァルト……」であった。満50歳での死。着手していた第十番交響曲は未完のまま残された。代表作とされる『大地の歌』と交響曲第九番は死後に初演された。

 マーラーは数字付き交響曲を9曲完成させたが、そのなかでも第七番交響曲は「失敗作」と評された歴史をもつ。「脈絡のなさ」と「様式の分裂」が際だつ曲で、初演のときは「ほとんどの聴衆から理解されなかった」という。しかし、これまた多くのマーラー好きが指摘する通り、ぼくはこの第七交響曲がもっともマーラーらしい曲だと思う。初めて交響曲のスコアというものを買ったのもこの曲だった。

 サントリーのテレビCFで日本でもブームになった歌曲交響曲『大地の歌』の完成が1908年。この『大地の歌』の完成後、その年9月にプラハで第七交響曲は初演された。この曲は実はすでに1905年夏には完成していた。マーラーのメモによれば完成日は1905年8月15日。マーラー45歳であった。

 交響曲第七番は、通称「夜の歌(Lied der Nacht)」と呼ばれる。ただし、この標題はマーラー自身によるものではない。5楽章構成になっていて、第2楽章(アレグロ・モデラート)と第4楽章(アンダンテ・アモローソ)には「夜曲(Nachtmusik)」という標題が付けられている。1905年初夏、マーラーがまず仕上げたのはこの第2楽章と第4楽章である。しかし、マーラーは二つの「夜曲」をいともたやすく仕上げたあと、突然スランプに陥ってしまった。

 第2楽章は葬送行進曲にしか聞こえない。第4楽章は明らかに通俗的な盛り場の音楽だ。この二つを書いて、マーラーは何も書けなくなった。しかし、そのスランプのあと、彼は夏の終わりには交響曲全体を仕上げる。ひと夏を無駄に過ごすかと思っていたとき、突如彼にひらめきが生じた。そうして、一気に交響曲第七番は完成する。きっとその間に45歳のマーラーの精神には何かが起きたのだ。

 第1楽章(アレグロ・リゾルート;マ・ノン・トロッポ)。二つの「夜曲」に挟まれた第3楽章(スケルツォ;影のように;流れるように、しかし速くはなく)。このスケルツォは、「影のように」という曲想指定でも分かる通り、何とも奇怪でおどろおどろしい。「あえて破綻させたぞ!」と言わんばかりである。そして、第5楽章(ロンド・フィナーレ;アレグロ・オルディナリオ)。

 終楽章(第5楽章=ロンド・フィナーレ)は、けたたましいティンパニの乱打と、ホルン・木管によるファンファーレから突如始まる。ワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』前奏曲さながらの祝祭的マーチだ。ハ長調による主要主題は何度もリフレーンするが、そこに雑多な音材で構成された副主題が執拗なまでに絡まる。エネルギーだけは終始拡散され続ける。サイモン・ラトルはこの曲のフィナーレを「最も悲劇的なハ長調の音楽」と呼んでいる。

 マーラーはその悲劇的狂騒によって何を突き抜けたのだろう。破綻を破綻のままで提示することで、その破綻をどこに何に結びつけようとしたのだろう。おそらくマーラーは二つの「夜曲」で自分自身の孤独感を凝視したあと、こう言いたかったのではあるまいか。――誤解しないでくれ。ぼくは何かを恐れているんじゃない。むしろ、その逆だ。何となく来るべきものが来たという安堵感の方が強いんだ、と。

 今でも、この曲の「破綻ぶり」をあげつらう評論家もいる。しかし、ぼくには、破綻が破綻のままで提示されていることにとても大きな魅力を感じる。自分自身もそうありたい。そうした決意を己れの中に確認したのは、やはりぼくも45歳を迎える頃であった。45歳という年齢は精神的にも肉体的にも一つの曲がり角である。その年齢のとき、マーラーは二つの「夜曲」をいともたやすく仕上げたあと、大きな屈折の中に陥ったのだ。

 ぼくも45歳の頃には精神が崩れかけていた。同じ年齢の自分に起きていたことを重ねながら、ぼくはマーラーのことを考える。マーラーは、実は自分の父を憎んでいたということを何歳のときに誰れに告白できたのだろう。彼は、家族の中でのどうしようもない孤独感を、どうやってごまかしていたのだろう。第七交響曲を仕上げる途上のマーラーのことを思うたび、この曲が自分のテーマ曲のように思えてならないことがある。

2011年10月29日土曜日

山川出版社『世界史(B)用語集』


「国民新党」という政党がある。その英訳は“People's New Party”だ。スペインやオーストリアの「国民党」も英語で“People's Party”と訳される。しかし、通常‘people’の訳語としては「人民」の方が流布している。中華人民共和国・北朝鮮民主主義人民共和国などの「人民共和国」の部分は“People's Republic”である。それに対して、一般に「国民党」と日本語に訳される各国の政党名の英訳として多いのは“National Party”もしくは“Nationalist Party”だ。

 戦前ドイツを席巻した‘Nazi’は、NAtionalsoZIalist(英語に直せば“National Socialist”)の略で、正式には「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」であった。括弧書きで記したように、「国家社会主義ドイツ労働者党」と訳されることもあり、「国民社会主義ドイツ労働者党」と訳されることもある。例えば、高校生向けの『改訂版 世界史(B)用語集』(山川出版社)でもその両方を併記している。

 日本語において、「国家」と「国民」という両語の落差はかなり大きい。両語を自由に入れ替えるとかなり怪しげな結果を生む。「国家公安委員会」を「国民公安委員会」にしたり、「国民生活センター」を「国家生活センター」にしたりすると、漢字一字の違いだがニュアンスは大きく異なる。美空ひばりや三波春夫を「国民的歌手」と呼ぶことに異存はないが、これが「国家的歌手」と呼ばれたら大きな違和感を感じる。

「国民的」が冠せられる語としては、「国民的美少女」や「国民的アイドル」などもある。「国民的美少女」というのは、もとは後藤久美子がデビューするときのキャッチフレーズだったが、その後、「全日本国民的美少女コンテスト」なるものが開催されるようになった。こうなると「国民的」という冠辞はかなり意味的に摩耗しているのがわかる。「国民全体」というよりも、「国民の一部から熱狂的に愛好されている」というニュアンスが強くなっている。

 ぼくたちは「国民」という言葉から、「ピープル」(人民)や「シティズン」(市民)に近い概念を連想しがちかもしれない。しかし、政府が「国民的な議論」というときの「国民的」はかなりニュアンスが異なっていると考えた方がよい。この自覚を失うと、「市民」ではなく「臣民」の座に己れを置いてしまうことになる。政府が「国民的な議論」というときの真の意味合いは、「大衆的な議論」という意味では決してない。むしろ、「国家としての議論」なのである。

ディスタンスからローカルへ


「BCL」という用語は、1970年代に一気に一般化・大衆化・商業化した。そうした用語は逆にマニアから忌避されるものだ。ぼくも海外放送(特にアジア近隣諸国の放送)を受信することに専念すればするほど、「BCL」という用語にちょっとした隔絶感を覚えるようになっていった。遠距離(Distance)の略語である「DX」を用いた「DXing」「DX'er」という用語の方を好んで用いるようになった。そこには少年らしい思い上がりもある。

三菱電機は、他社にやや遅れて「ジーガム」という名称でBCLラジオを発売した。その発売を機に日本短波放送(NSB:現・ラジオNIKKEI)で『ハロージーガム』というBCL番組が始まった。1974年のことである。MCは肝付兼太氏だった。中学二年のとき、その番組のディレクターさんから電話が掛かってきた。取材の申し込みである。

当時、『ラジオの製作』という雑誌に「みっしぇるの会」というBCLグループを作ったという投稿をした。それが目にとまったらしい。確かに「みっしぇるの会」のゴムスタンプは出来上がっていた。郵便振替口座も開設していた。しかしながら、まだグループとしての実体はなかった。ようやく「入会問い合わせ」のハガキが二~三通届いている程度だった。

ところが、取材までの日程はない。「みっしぇるの会」は実体のないまま取材を受ける。いっそ断ればよかったのだろうが、何事についても依頼ごとが拒めないのがぼくの弱さである。急遽、当時のラジオ仲間だったイタちゃんとマキちゃんに協力を要請した。NSBのディレクターさんが我が家に到着したのは日暮れ時だった。それからデンスケによる録音取材が始まった。

丸刈りの中学二年生三人組にマイクが向けられた。何やら怪しいやりとりが続く。あとで放送を聴いたときは赤面ものだった。ぼくはやたら媚びを売り、イタちゃんは個性的にアンテナについて語り、マキちゃんはボケをかましていた。今も、オンエアーの録音は残っているが、なかなか聴き返す気にはならない。

中学三年生の三学期。ぼくは詫間電波高専へ進学するという夢もあきらめ、近くの普通科高校を受験する。無事合格。高校入学後も「DXing」とその関連活動はずっと続けた。しかし、やがてそうしたアクティビティーから自ずと遠ざかるようになっていった。つまり、いわゆる「BCL」の世界から徐々に離れていった。

その理由の一つは、高校生にして酒を覚えてしまったことである。「DXing」の趣味は、夕方から深夜、さらに早朝にかけてが勝負だ。その時間帯に悪友たちとノミニュケーションに精を出すようになってしまった以上、もはや(雑音を避けるため)蛍光灯をすべて消して静かに「シャック」(受信装置の置かれたデスク)の前に座るストイックさには戻れなかったのだ。呑めや歌えやの毎日はぼくを「ディスタンス」から「ローカル」へと向かわせた。

もう一つは、ある女の子に恋情を抱いてしまったことだ。多少は「いい格好」をするために学業の方にも精を出すようになった。それまでは高校の予習・復習・試験勉強等々、そんな時間はすべて犠牲にしてシャックの前に夜通し座っていた。だが、恋愛の力は人を変える。次第に受信機の電源をONにする回数が減っていった。代わりに、『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』をNSBで聴くようになっていた。趣味も民俗学方面へと移行していく。

折りしも、アジア中波局の周波数刻みが「10kHz」から「9kHz」へと変更となる。ぼくの頭の中にあった周波数表が現実と合致しなくなった。「ああ、ここまでだな……」という感じだった。それが、時期的には「BCLブーム」の衰退とシンクロしていた。「シャックルーム」だったはずのぼくの部屋は、平日は勉強部屋となり、週末は宴会場となった。だが、当分の間は、ぼくの部屋を訪れた高校の悪友たちは、わがシャックの見事さに圧倒されていた。「おまえはスパイか……?」と。

2011年10月28日金曜日

『深代淳郎の天声人語』


 両親は文字に不自由だった。それで困ったことはそれほどない。しかし、両親に新聞を読むという習慣がなかったことは、やがてぼくを口惜しい思いにさせた。中学生になったぼくは新聞が恋しかったのだ。我が家にも新聞がほしい、朝一番に新聞を見たい。そう思った。

 中学生のときは学校の図書室にある新聞で用を済ませた。とはいえ、最初はテレビ欄をチェックする程度だった。そのうちぼくを惹きつけたのが、『朝日新聞』のコラム「天声人語」だ。これはあとで知るのだが、当時の執筆者が深代淳郎であった。

「『朝日新聞』をとってほしい」と親に懇願したのは、高校入学前だったか、入学後だったか定かではない。ともかく、高校生になってからまもなく、我が家の郵便受けにも毎朝、新聞が投函されるようになった。最初の数日は欣喜雀躍した。自分の家で「天声人語」が読めることがこよなくうれしかった。

 深代淳郎の「天声人語」はその後『深代淳郎の天声人語』という単行本として刊行された。本として組版されたものと、一行の文字数に制限がある新聞紙面とでは、同じ内容であっても印象が異なった。深代淳郎は昭和48年2月から昭和50年11月まで「天声人語」を担当したそうだ。深代は昭和50年12月に息を引き取る。急性骨髄性白血病。46歳であった。

 我が家に『朝日新聞』が配達されるようになった頃には、すでに「天声人語」の執筆者は深代淳郎ではなかった。それでも「天声人語」が楽しみだった。その後、自分が魅せられたのが実は深代淳郎の文章であるということを知ってからは、前述の『深代淳郎の天声人語』はもちろん、『続・深代惇郎の天声人語』、『深代惇郎エッセイ集』、『深代惇郎の青春日記』を購入し、二読三読したものである。

「『朝日新聞』以外は購読しない」とヘタに言うと、すぐに思想偏重だと言い立てる輩がいる。だが、ぼくにはぼくなりの『朝日新聞』へのこだわりがある。それは中学生時代に読んだ深代淳郎の「天声人語」に溯る。ちょっとした文章を書いていて、「あ、これは深代淳郎の文体に影響を受けている」と感じることが今でもある。

ページの向こうに笑顔が見える


「BCLブーム」が全盛期を迎えていた頃、中国は文化大革命のまっただなかにあった。中国に関しては国内の放送事情はほとんど公開されてなかった。当時、その中国をはじめとするアジア近隣諸国のラジオ放送について、極めて精緻で高度なレポート記事を『電波技術』誌にほぼ毎号執筆していたのが長瀬博之氏である。

 その長瀬氏が、まだ950kHzだったTBSラジオの裏側に夕方になると混信している中国語局がどこの放送局か確認できないというメモを『電技』誌に投稿していた。長瀬氏は東京在住だった。確認は西日本の方が有利だ。ぼくは、それが「黒竜江人民広播電台」だと確認して、早速受信レポートを『電技』に投稿した。中学一年のときだった。

 長瀬氏の強い影響を受けて、ぼくもアジア近隣諸国の中波帯にターゲットを絞った。しかし、朝鮮半島に関しては山下透氏というツワモノがいた。のちに「アジア放送研究会」の理事長として、放送傍受による北朝鮮情勢の分析に携わり、NHK国際放送のアナウンサーとしても活躍した方である。ぼくは朝鮮語・韓国語圏は諦めて、もっぱら中国語や広東語のラジオ放送受信に専念した。

 台湾の「高尾漁業広播」の定時放送があることを、ラジオ・スウェーデンの“DX'ers Club”に報告したことがある。国際的に権威ある専門番組だった。報告書の原稿は辞書を引き引き英語で書いた。そのレポートが番組の中で紹介されたときの喜びは今も忘れられない。‘DX'ers’の‘DX’とは‘Distance’の略号であり、遠距離局を表す。ぼくはすでに‘BCL’という用語を使わなくなっていた。自分はすでに‘DX'ers’の一人だという自覚が芽生えていた。

 大学卒業を控えた長瀬博之氏は、中学生のぼくと会うために岡山駅で途中下車してくださった。当時のマスカットプラザにあった喫茶店で話をした。最初は興奮してしどろもどろだったのを今でもよく覚えている。卒業後、長瀬氏は松下電器に就職する。ポータブルBCLラジオの傑作、かの「ナショナル クーガー2200」の製品化には、長瀬氏も学生時代から関与していたそうだ。

 また、講談社からは、『短波に強くなる―海外放送受信学入門 BCL/DXerへのすすめ』という著書を益本仁雄氏との共著で上梓している(1976年)。今でもこのブルーバックスはぼくの宝物の一つである。味気ないといえば味気ない内容で、関心のない人にはこの本の何が面白いのかわからないだろう。それはそれでいい。しかし、ぼくにとっては、この本のページの裏側に長瀬博之氏の笑顔が透けて見える。黄ばんだページの向こうにあの頃の宝石がある。

2011年10月27日木曜日

柳美里『自殺』


柳美里(ユウ・ミリ)の「レッスン1993 自殺をプログラムする」(文春文庫『自殺』所収)は、一つの「自殺のすすめ」である。1993年7月19日に神奈川県立川崎北高等学校で行われた、自殺をテーマにした「レッスン」の内容がまとめられている。

柳美里自身、14歳のときに自殺未遂の経験をもつ。そういう経験の中から、ひとは「絶望したときに死ぬとは限らない」ということや、ひとは「自我を守るために死を選ぶ」ケースもあるということが語られる。いくつもの自殺の具体的事例の中から、「自殺」という行為がもっている積極的な意味を探っていこうとする。

このレッスンの終盤、柳美里は次のように改めて語り起こす。「最後になりますが、私はここで逆説的に自殺のすすめを皆さんにしたいと思います」。この部分には「死がなければ生もない」という見出しが付けられている。

「私の自殺のすすめというのは、さっきいったように、自分の人生の中に自殺をプログラムすべきだということです。『それでは、まずあなたが死んでみたら』という声が聞こえてきそうだけれども、私は自分の中に自殺をプログラムしていて、書きたいことを書いたら、自殺をするつもりでいます。」

このように柳美里は、「書きたいことを書いたら」という限定付きではあるが、「自殺」を一つのゴールであると意識している。

「問題は死ぬことよりも、死んだように生きることだと思います。(中略)死がなければ生もないんです。永遠に生きられるとしたら、自殺を望むひとというのはものすごく増えるのではないかなと思います。」

確かにそうかもしれない。「死んだように生きる」時間がこの先ずっと続くと予見してしまったとき、ひとは強い絶望感を抱くことだろう。柳美里は、「人生の中に自殺をプログラムする」ことは「生の活性化」になると主張する。そのためには、「生の中に死が潜んでいる」ということに意識を向けることが大事だと強調する。

希死念慮というのは、「心の弱さ」かもしれないし、また、「生の活性化」を常に求めるしたたかさなのかもしれない。さまざまな若者と付き合っていて、ある程度親しくなると、ぼくは「死にたいと思ったことってある?」と尋ねる。程度の差こそあれ、ほとんどの若者は自死願望や自殺衝動を心に抱いたことがあると答える。希死念慮や自殺願望は、何も特別なことではない。

みんな「BCL」だった日々


ぼくが小学校高学年から中学生の頃は、ときまさに「BCLブーム」と呼ばれた時代である。短波の国際放送とか中波の遠距離国内局とかを聴いて、その「受信報告書」を送り、「ベリカード」(QSLカード)と呼ばれる証明書を集めるのが大ブームになった。今もぼくの研究室にはそのころ必死に集めたベリカードのファイルがある。ほとんどは単なる絵葉書なのだが、一局一局、苦労して受信した成果なので今でも捨てることができない。

ソニー、松下、東芝、三洋、シャープ、ビクター、三菱、日立と、各家電メーカーが「BCLラジオ」の性能とデザインでしのぎを削った。ちなみにブームの火付け役となったソニーの「スカイセンサー ICF-5500」の発売が1972年(翌年にICF-5800発売)。ナショナルの名機「クーガー RF-2200」の発売が1976年。ぼくはこの年にトリオの「R-300」を入手。ポータブルではなく据え置き型だ。トリオは、往年の真空管受信機の逸品「9R-59D(S)」の製造メーカーだったので信頼感があった。

当時の自室は「勉強部屋」ではなく、完全に「シャックルーム」だった。受信機や周辺機器、さらに関連道具や関連資料を配したコーナーを無線屋用語で「シャック」と呼ぶ。やや高台に建つ木造家屋の二階であったので、電波はどんどん飛び込んでくる。しかし、それだけでは飽き足らず、じゃんじゃんアンテナを作った。窓の外にはロングワイヤー式、シングルダイポール式、ダブルダイポール式のケーブルと碍子がいつも風になびく。室内には壁面をめいっぱいに使ったループ式。アンテナセレクターでそれらを切り替える。

今はもうダメだが、中学生のころはなかなかの電子エンジニアであった。真空管でも回路が組めたし、当時全盛だったトランジスタやFETの回路も当然わかる。かつ、まだ出始めだったICでも論理回路を作って、おかげで論理演算の要領をこのときマスターした。半導体の規格表も毎年買った。わがシャックは自作のさまざまな高周波回路であふれていた。アンテナ用のカップラー(同調器)、電波強度増幅器(RFアンプ)、電波強度弱衰器(アッテネーター)、デジタル周波数カウンター、その他、自作の測定機器等々。

テスター片手にはんだごてを握らせたらちょっとした名人だった。中学校の「技術」の時間、三年のときは中波ラジオのキットを男子全員が作った。技術の担当教員は、木工と金工はすごい技術と経験の持ち主だったが、電気はからっきしダメ。工業高校の電子科に進学することになる友人とぼくの二人に向かって「お前らにすべて任せる」と宣言した。おかげでぼくたち二人の放課後は、他の男子たちが中途半端に作りかけたラジオを「修理」する業務に追われた。

2011年10月26日水曜日

大槻文彦『言海』


「はぐくむ」という言葉がある。「教育」の「育」は「はぐくむ」と読みなす。嫌いな言葉ではない。親鳥が卵やひなを羽毛で温かく大切にくるんで、その成長を見守る。「はぐくむ」という言葉には、そうした優しさや温かさがあふれている気がする。

 一方、「そだつ」「そだてる」という言葉は、どうやら「巣立つ」が語源のようだ。しかし、鎌倉時代の僧である経尊の著した古辞書『名語記』を見ると、

「人のこも鳥獣のこも成長するをば、そだつといへる、そ、如何。そは、そその反、そろそろとおひたつ也。又、すだつをそだつといひなせる歟」

と記されており、詰まるところ、「そだつ」とは「そろそろとおひたつ」ことだと記されている。『名語記』はこの例でもわかるように、かなり独断に満ちた語源説明が多く、その分楽しみながら読むことができる。思えば、ぼく自身も確かに、「そろそろ」と生い立ってきたように思う。

 これに対して、「教育」の「教」の方、つまり、「教える」の語源については、定説と言えるものはないようだ。ただ、富山や島原に「おさえる」という方言語形が見られるところから、「おさえる」と同根だという説が有力かもしれない。つまり、悪いところをおさえたり、また、肝腎なところをおさえたりして、未熟な者を指導するという意味になる。

 ところが、大槻文彦の『言海』には「おしむ」と同根だと記されている。つまり、「教える」という行為は、相手をいとおしみ、その可能性の花咲かぬを惜しむ思いから起こるということになる。居並ぶ学生を前にして何かを教えている気にはなっていても、そのとき、ぼくは本当に学生一人ひとりの命の輝きを惜しんでいるだろうか。相当懐疑的にならざるをえない。

『書経』説命・下には、「惟みるに、おしふるは学びの半ば」という言葉がある。「教える」ということから、確かに大切なものを教える側も学んでいると思う。「教育」の「教」は「おしむこと」、「育」は「そろそろ生い立つ」こと。こういう読み替えの中に、もしかすると大切なヒントが隠されているのかもしれない。

夢と消えた詫間電波高専


 中学三年生のとき、瀬戸内海を渡った香川県にある詫間電波高専に進学したいと願っていた。建設予定の瀬戸大橋が「夢の架け橋」と呼ばれていた時代だ。第一の理由はわが心の中でふつふつと煮えたぎる「電波熱」であった。しかし、いろいろゴタゴタ続きの家を出て寮生活をしたいという考えもあった。継母の連れ子(すなわちぼくの義理の兄姉)や継母の親族と、人間不信甚だしいオトンとの間では揉めごとが絶えなかった。

 中学三年生。日曜日になるとアンテナを立て替える日々だった。田舎だったから、何でもやりたい放題である。岡山県南部は冬でも晴天続きだ。寒風の中、二階建ての家の屋根に敢然と登って、得意の自作真空管式同調測定装置(ディップメーター)を駆使しながら、ワイヤーの方向と長さを徐々に変えていくときの爽快感。うまく狙った方向と周波数にアンテナがぴたっとチューニングできたときの満足感は、実際にやったことのある人間にしかきっとわかってもらえないだろう。

 その頃、ぼくには片想いの女の子がいたが、「ワシはオナゴよりラジオやアンテナが好きじゃけ。」と友人たちにうそぶいていた頃だ。ぼくとしては進学先は一つしかないと思っていた。それが当時、仙台・熊本と並んで日本に三つしかなかった高周波専門の高等専門学校、詫間電波高専である。略称「電波高」、単に「電波」とも呼ばれていた。ぼくは何も悩むことなく、中学校の進学希望調査票に「詫間電波高専」と書いた。

 ところがである。ラジオ大阪で放送されたぼくの下品なラジオドラマを聴いてくれた学年主任は、学級担任だった英語教員と結託して、寄ってたかってぼくの野望に異を唱えた。もともと自分自身の生き方に自信のないぼくはその策謀にまんまとひっかかり、普通科高校進学に志望先を書き換えさせられた。高校入試の勉強は何もしなかった。入学試験の前日、ぼくは高周波トランジスタ(FET)を使った超短波コンバーター回路を夜遅くまでかけて組み上げた。

 結局、ぼくは普通科高校に進学する。中学三年のとき、己れの我を通して詫間電波高専に進学していたら、当然、いまのようなぼくはない。どちらがよかったのだろうと思うことがある。高校進学後も高周波趣味は続いた。「日本BCL連盟」という全国組織が設立されたのが高校一年のときで、その機関誌『月刊短波』の創刊準備号に原稿を書いたのが、ぼくにとっては初めての〈依頼原稿〉だった。連盟の岡山支部長という肩書きまで頂戴する。日曜日には「中波用ループアンテナ作り講習会」などを岡山市内で主催していた。当然、高校の勉強はそっちのけだった。

2011年10月25日火曜日

ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』


 リラダン(Auguste Villiers de l'Isle Adam)は、19世紀フランスの文芸家である。彼は詩人のボードレールや音楽家のワーグナーとの親交で知られる。もとはフランスでも数本の指に入る名門貴族の出身だが、フランス革命で没落した。

 早くから文芸創作に目覚め、いくつもの作品を世に問うが支持は得られない。しかし、時勢におもねることを嫌うリラダンは、ますます「孤高」と「理想」の枠の中に自分の作品を押し込んでいく。世間からの無視は続く。当然、彼の生活は悪化する。

 だが、それでもリラダンは、死後においてしか成就しない永遠の愛と、それに向けた現実超克の姿勢を、SF的な神秘性の中に書き綴っていく。1889年8月19日、リラダンは極貧の暮らしの中で落命する。パリの貧民救済病院の病床であった。親友のマラルメが彼の不運な死を看取ったという。

 リラダンの短編集『至上の愛(L'Amour Supreme)』『奇談集(Histoires Insolites)』『新残酷物語(Nouveaux Contes Cruels)』などを読んだのは二十歳の頃だった。思うに、二十歳の頃は貪るように何でも読んだ。何でも読めた、ということか。

 リラダンは当然、東京創元社が刊行した『ヴィリエ・ド・リラダン全集』全5巻で読んだ。齋藤磯雄氏による個人訳である。これは恐るべき偉業である。全集を購入するだけの財力はなかったので図書館を利用した。

『未来のイヴ(L'Eve Future)』や『トリビュラ・ボノメ(Tribulat Bonhomet)』は渡辺一夫の訳でも読むことができる。これは『渡辺一夫著作集』の第7巻に所収されている。このうち、1886年に発表された『未来のイヴ』はギリシア神話のピグマリオン伝説に基づいている。「アンドロイド」という言葉が初出する作品としても知られる。

 不思議なことに、ぼくはリラダンの作品を読んでいた二十歳のころ、ディアギレフ(Sergej Pavlovich Dyagilev:1929年8月19日客死)のことも知り、北一輝(1937年8月19日刑死)のことも知った。ほぼ何のつながりもないこの3人が同じ日(しかもぼくの誕生日8月19日)に生命を落としたと知ったのは、かなり後になってからのことである。

 死去した年齢は、リラダン、満52歳。北一輝、満54歳。ディアギレフ、満57歳。さて、ぼくはどのあたりが人生の限度だろう。

ラジオ少年まっしぐら


ぼくは小学校高学年からいわゆる「ラジオ少年」であった。コカコーラの懸賞でトランジスタラジオが二台か三台か当選した。ビスを外して、基板を取り出し、いろんなところにドライバーの先端を当てると、いろんな変化があった。特に高周波トランスのあたりに磁石を近づけるとハウリング現象が起きて、ちょっとしたテルミンのような遊びができた。

家にあった時計付きのトランジスタラジオも分解してみた。コアフェラメントのバーアンテナの部分に手を近づけると感度がアップすることを発見。アンテナのリード線と基板の接合部に銅線をつないだ。立派なアンテナになった。ただ長すぎると過変調を起こす。いろいろと試行錯誤したものだ。

小学六年の時、学研の『科学』の付録としてエナメル線をぐるぐる巻いて拵えるゲルマラジオの製作キットが付いてきた。田舎だったものだから放送局の電波塔から遠い。長大なアンテナをつながないとうまく聞こえなかった。そこでぼくはともかく長いアンテナ作りに挑戦する。いわゆるロングワイヤー式である。

ぼくが中学生であったころはラジオがいちばん元気な時代である。学校の授業時間はほとんどリクエストカードを書くのに費やされた。さまざまな新しい手法を使った。文章も練りに練り、イラスト画像にも徹底的に凝った。懸賞ハガキもたくさん出し、めぼしい賞品はだいたいゲットした。ラジオの公開放送があると耳にすれば、必ず押し掛けていた。その場で自分のリクエストカードが読まれるというのが最高の栄誉であった。

自作のラジオドラマも作っていた。シナリオ書いて、効果音も自分で録音してきて、自分の声のピッチを変えながら一人で何役でもやった。かなり高い確率でそのラジオドラマは番組でオンエアーしてもらえた。たまたま中学の学年主任がそれを聴いていた。翌日、それを告げられたときは焦ったものだ。中学校教員には聞かせられないような相当下品な作品だった。

萩本欽一とパジャマ党がやっていたニッポン放送の『欽ドン』(のちにテレビ番組となるが、もとはラジオ番組であった)でも投稿ハガキが読まれた。これは名誉中の名誉だった。ぼくが書いたのは「最後のひとこと」コーナー。「Aの133、以来の恐怖が今年また」という戯れ句である。わからないひとにはわからない。初期からの欽ドンファンにのみ通じるギャグだ。欽ちゃんは言う。「なにこれ~。ひどいじゃないの。ボツ~!」。ぼくはめでたくボツにされた。

2011年10月24日月曜日

林芙美子『浮雲』

 好きな日本映画を三作品挙げろと言われたら、結構当たり前の答で申し訳ない気もするが、小津安二郎『東京物語』(1953年)、成瀬巳喜男『浮雲』(1955年)、黒澤明『赤ひげ』(1965年)となる。このうち、『浮雲』は作家・林芙美子の原作だ。1951年(昭和26年)6月28日、『めし』などの連載を抱えて疲労困憊していた林芙美子は心臓麻痺で急逝する。

『浮雲』は1949年から翌1950年にかけて連載された。完結した長編小説としては林芙美子最後の作品となった。単行本の出版は急死の一ヶ月前のことである。ぼくがこの作品を読んだのは大学に入学したばかりの頃だった。ぼくは林芙美子の原作小説よりも、先に映画の方をみていた。

 成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』を初めてみたのは中学校二年生の頃だったに違いない。当時、祝祭日の午前中、「連続テレビ小説」が終わってニュースが済むと、NHK総合テレビで日本映画の名作が放映されていた。洋画は、『月曜ロードショー』(荻昌弘)、『水曜ロードショー』(水野晴郎)、『土曜映画劇場』(筈見有弘)、『日曜洋画劇場』(淀川長治)のほか、休日午後や深夜帯にいろいろと流れていたが、日本映画はあまりテレビでは取り上げられなかった。だから、祝祭日午前中のNHK総合テレビでの日本映画放映はとても楽しみだった。

『浮雲』は林芙美子の原作もさることながら、水木洋子の脚本が凄い。ヒロインの幸田ゆき子を演じる高峰秀子、優柔不断な富岡兼吉を演じる森雅之の演技や台詞まわしもいい。「男と女を撮らせたら成瀬巳喜男」という評判通りの巧みな演出。しかもチーフ助監督はかの岡本喜八であった。そのようなことは、何度も何度もこの作品を見返しているうちに徐々に了解してきたことだ。中学校二年生のときのぼくは、ただただこの地味な白黒映画から漂ってくる濃厚な情念に圧倒された。伊香保温泉の場面はあまりに禁欲的で情欲的だ。

 それから林芙美子の原作小説を読むまでに数年が経過した。大学生となったぼくは、つまらない教養科目の大教室の片隅で、林芙美子の骨太の文体に酔った。読み進んでいるうちは、「この文体の素敵さがわかる自分は素敵だ」と、手前勝手で青くさい自己陶酔感を味わったものだ。中年になってから、再びこの小説を読み返したとき、ぼくは自分の人生が指弾されているような気がした。文芸作品とは不思議なものである。ある種の予知能力がある。


贋筆少年、新聞に憧れる

 学校に提出する書類には、保護者の署名が求められたり、保護者の記入欄があったりした。小学生以来、ぼくはそうした場合に自分で記入した。己れ自身の筆跡とはあえて変化させた贋筆を弄した。悪意はない。親にそうしろと命じられた。両親とも文字を書くことが不得手であったためだ。

 父親は片仮名と平仮名は操ることができたが、ほとんど漢字が書けなかった。読める漢字も少なかった。大正九年生まれの父は、十歳過ぎまでに両親を相次いで喪った。一応、戦前の地主の跡継ぎで、学校に通うことよりも一人前に稼ぎ、田地を守ることが父には要求された。少年だった父を騙して田地を奪い盗ろうとする親族もいたらしい。

 母親はぼくにとって継母である。育ての母だ。大正十五年生まれ。片仮名・平仮名も含めて、文字の読み書きはほとんど出来なかった。継母は、徳島祖谷渓の阿佐家の出である。祖谷の阿佐家は平国盛の直系の子孫と伝えられ、いわゆる「平家の赤旗」が屋敷にあったことを継母はぼくに伝えてくれた。

 しかし、継母の祖父に当たる人物が「呑む・博つ・買う」で大山師だったらしく、家は衰退、家族は離散してしまう。継母は尋常小学校二年生で徳島市内に子守奉公に出された。そのため母はせっかく覚え掛けた片仮名もほとんど忘れてしまった。なお、その後、阿佐家の屋敷は、名勝地・大歩危(おおぼけ)に移築され、今は「平家屋敷」と称されている。

 保護者記入欄の贋筆問題はともかく、両親が文字に不自由だと困ったことが一つあった。それは新聞である。小学生のころは新聞よりも『少年チャンピオン』あたりがあればよかった。別に新聞が我が家にないことに不自由は感じなかった。ところが、さすがに中学生になると新聞が恋しい。我が家にも新聞がほしい。そう思うようになった。

 中学校の三年間は、学校の図書室にある新聞で用を済ませた。「高校生になったら新聞をとってほしい」と親に懇願したのは、高校入学前のことだった。高校生になってからまもなく、我が家の郵便受けに『朝日新聞』が投函されるようになった。活字の級数は今よりも小さかった。行送りも控えめで、ぎっしり文字が詰まっていた。それを我が家で読めることがこよなくうれしかった。