グスタフ・マーラーは1860年7月7日、オーストリア領ボヘミアの小さな村に生まれた。息子の音楽才能を儲けの種としか思わない放蕩者の父と、12人の子を出産した母マリーの間に産まれた2番目の子どもがマーラーだった。彼はその父を憎み、家族を捨てて、15歳のときウィーン音楽院に進む。
彼は「オーストリアにおけるボヘミア人」、「ドイツにおけるオーストリア人」、「世界におけるユダヤ人」として、根無し草的、ディアスポラ的な心性を終生抱き続けたと言われる。宗教についても、37歳のとき、ウィーン宮廷歌劇場指揮者に任命されるに先駆けて、ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。
マーラーの生誕日7月7日に、彼の第七番交響曲を聴くことは、ぼくにとっては一つの重要な儀式である。マーラーは1911年5月18日に死去した。よく知られている通り、最期の言葉は「モーツァルト……」であった。満50歳での死。着手していた第十番交響曲は未完のまま残された。代表作とされる『大地の歌』と交響曲第九番は死後に初演された。
マーラーは数字付き交響曲を9曲完成させたが、そのなかでも第七番交響曲は「失敗作」と評された歴史をもつ。「脈絡のなさ」と「様式の分裂」が際だつ曲で、初演のときは「ほとんどの聴衆から理解されなかった」という。しかし、これまた多くのマーラー好きが指摘する通り、ぼくはこの第七交響曲がもっともマーラーらしい曲だと思う。初めて交響曲のスコアというものを買ったのもこの曲だった。
サントリーのテレビCFで日本でもブームになった歌曲交響曲『大地の歌』の完成が1908年。この『大地の歌』の完成後、その年9月にプラハで第七交響曲は初演された。この曲は実はすでに1905年夏には完成していた。マーラーのメモによれば完成日は1905年8月15日。マーラー45歳であった。
交響曲第七番は、通称「夜の歌(Lied der Nacht)」と呼ばれる。ただし、この標題はマーラー自身によるものではない。5楽章構成になっていて、第2楽章(アレグロ・モデラート)と第4楽章(アンダンテ・アモローソ)には「夜曲(Nachtmusik)」という標題が付けられている。1905年初夏、マーラーがまず仕上げたのはこの第2楽章と第4楽章である。しかし、マーラーは二つの「夜曲」をいともたやすく仕上げたあと、突然スランプに陥ってしまった。
第2楽章は葬送行進曲にしか聞こえない。第4楽章は明らかに通俗的な盛り場の音楽だ。この二つを書いて、マーラーは何も書けなくなった。しかし、そのスランプのあと、彼は夏の終わりには交響曲全体を仕上げる。ひと夏を無駄に過ごすかと思っていたとき、突如彼にひらめきが生じた。そうして、一気に交響曲第七番は完成する。きっとその間に45歳のマーラーの精神には何かが起きたのだ。
第1楽章(アレグロ・リゾルート;マ・ノン・トロッポ)。二つの「夜曲」に挟まれた第3楽章(スケルツォ;影のように;流れるように、しかし速くはなく)。このスケルツォは、「影のように」という曲想指定でも分かる通り、何とも奇怪でおどろおどろしい。「あえて破綻させたぞ!」と言わんばかりである。そして、第5楽章(ロンド・フィナーレ;アレグロ・オルディナリオ)。
終楽章(第5楽章=ロンド・フィナーレ)は、けたたましいティンパニの乱打と、ホルン・木管によるファンファーレから突如始まる。ワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』前奏曲さながらの祝祭的マーチだ。ハ長調による主要主題は何度もリフレーンするが、そこに雑多な音材で構成された副主題が執拗なまでに絡まる。エネルギーだけは終始拡散され続ける。サイモン・ラトルはこの曲のフィナーレを「最も悲劇的なハ長調の音楽」と呼んでいる。
マーラーはその悲劇的狂騒によって何を突き抜けたのだろう。破綻を破綻のままで提示することで、その破綻をどこに何に結びつけようとしたのだろう。おそらくマーラーは二つの「夜曲」で自分自身の孤独感を凝視したあと、こう言いたかったのではあるまいか。――誤解しないでくれ。ぼくは何かを恐れているんじゃない。むしろ、その逆だ。何となく来るべきものが来たという安堵感の方が強いんだ、と。
今でも、この曲の「破綻ぶり」をあげつらう評論家もいる。しかし、ぼくには、破綻が破綻のままで提示されていることにとても大きな魅力を感じる。自分自身もそうありたい。そうした決意を己れの中に確認したのは、やはりぼくも45歳を迎える頃であった。45歳という年齢は精神的にも肉体的にも一つの曲がり角である。その年齢のとき、マーラーは二つの「夜曲」をいともたやすく仕上げたあと、大きな屈折の中に陥ったのだ。
ぼくも45歳の頃には精神が崩れかけていた。同じ年齢の自分に起きていたことを重ねながら、ぼくはマーラーのことを考える。マーラーは、実は自分の父を憎んでいたということを何歳のときに誰れに告白できたのだろう。彼は、家族の中でのどうしようもない孤独感を、どうやってごまかしていたのだろう。第七交響曲を仕上げる途上のマーラーのことを思うたび、この曲が自分のテーマ曲のように思えてならないことがある。