棟方志功の版画に「華狩頌板画柵」という作品がある。この作品について、棟方は自著『板極道』(中公文庫)の中で次のような解説を行っている。
「けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、花だと、心で花を狩る。きれいな心の世界で美を射止めること、人間でも何でも同じでしょうが、心を射とめる仕事、そういうものを、いいなあと思い、弓を持たせない、鉄砲を持たせない、心で花を狩るという構図で仕事をしたのです」
うまいことを言ったものだ。同じようなことを述べた断章は『星の王子さま』の中にも出てくる。有名な次の一節だ。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ。」
だが、残念ながらサン・テグジュペリの言い方はネガティブだ。棟方の言葉はもっと前向きである。心で花を狩る。心で射とめられた花はきっとかけがえのない美しさを放つに違いない。言い換えれば、花はそのとき「心を射とめる仕事」を果たしえたのである。
誰にだって聞く「耳」はある。話す「口」もある。でも、「聞く耳をもたない」人もいる。「何ごとにも口をつぐむ」人もいる。おそらく肝腎なのは耳でも口でもないのだろう。大切なのは「心」。
だとするならば、結局は、自己を顕示するか、自己を隠蔽するかだけの問題となる。二つも三つも「自己」はない。一つの「自己」に二つも三つも「心」はない。
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