2011年11月10日木曜日

昔のこと消せる消しゴム


テレビドラマ『北の国から '95 秘密』の中で、宮沢りえ演じる小沼シュウは「昔のこと消せる消しゴムがあるといい。」と言う。心に残るせりふだ。一方、黒板五郎(田中邦衛)は、シュウの《過去》への拘泥が捨てられない息子の純(吉岡秀隆)に対して次のように叱責する。このとき、純はゴミ収集の仕事をしており、自分の手についた臭いが嫌で、石鹸で洗ってばかりいる。

お前の汚れは、石鹸で落ちる。
けど、石鹸で落ちない汚れってもんもある。
人間、長くやってりゃあ、
どうしたってそういう汚れはついてくる。
お前にだってある。
父さんなんか汚れだらけだ。
そういう汚れは、どうしたらいいんだ、えっ……。

ぼくも「汚れ」だらけだ。そういった「汚れ」のひとつやふたつ、誰にだってある。これを読んで下さっているあなたにも多少はあるはずだ。しかしながら、そうした「汚れ」を抹消してくれる「消しゴム」はない。

もともと、ぼくたちは生まれついたときには純真素朴であったのかもしれない。いや、思春期を経てもなお、「自分だけは純真素朴だ」と信じ込みたいひとだって、たまにはいるだろう。しかし、自分の好きな相手を理想化するならともかく、自分自身を理想化してみても仕方がない。人間、年月が経てばゴミやチリやホコリがつくのは当たり前だ。

むろん、おのれの核とする部分に純真さや素朴さを位置づけておくのは悪いことではない。しかし、生きるとはそういった純真さや素朴さという核の周りに、たんまりとチリ・アクタを付着させることではないのだろうか。かつて話題になったお伊勢名物「赤福」のように、「アン抜き」や「モチ抜き」といった手法で賞味期限を誤魔化すことはできよう。しかし、そんな無理をしてまで、純真さや素朴さをアピールしつづける必要が人生のどこにあるのか。

汚れた者どうしということでいいではないか。それも含めて受け入れ合うことが大切なのではないか。無理をすることはない。人間、数十年も生きていれば、叩けばホコリの出る身体となるのは当然であり、そのホコリを誇りとせよとは言わないが、「お互い、すねに傷のある者同士、言いたくないことは聞かないぜ。」という『鬼平犯科帖』のせりふでいきたいというのがぼくの本音だ。

ぼくたちは過去に立ち戻ることはできないが、未来ならまだ少々ある。今を断ち切ることはできなくても、新しい今をやがてもたらす機会を創り出すことならできる。楽しい時間であっても苦しい時間であっても、人生に「無駄な時間」なんかはないように思う。また、「無駄」にしてはならないのだ。そういう意味では「昔のこと消せる消しゴム」なんかは必要ない。

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