2011年11月1日火曜日

百歳ちがいのマーラーは問う


グスタフ・マーラーが生まれた1860年と言えば、日本では安政から万延に改元される年だ。咸臨丸がサンフランシスコに到着し、桜田門外の変で井伊直弼大老が殺害され、エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に就任した年である。

大江健三郎の快作『万延元年のフットボール』は、その1860年(万延元年)と百年後の1960年とが寓意的な対照性を保ちながら語られる。1960年と言えば安保闘争の年だ。ぼくが生まれたのもその1960年であった。ぼくはマーラーの百年後に生まれた。

百年の差だと計算がしやすい。ぼくはマーラーにのめり込んでからというもの、自分の年齢のときにマーラーが何をしていたかが気になった。例えば、マーラーが第一交響曲を完成させたのは1888年3月である。マーラー27歳。初演は1889年の終わり。マーラー29歳。ちょうどぼくも28歳から29歳にかけて、自分の生き方の屈折点に差し掛かっていた。

その頃は「タイタン」という標題が付けられたこの第一交響曲を意識的に繰り返し聴いた。そうすることで自分を鼓舞しようと思った。この処女交響曲の初演の際、聴衆は戸惑い、評論家も非難の嵐をマーラーに向けたという。そうした逸話がぼくの心の支えにもなった。

マーラーについて語る多くの人が、『大地の歌』や交響曲第九番からこの作曲家に取り憑かれるようになったと回顧する。ぼくも同じだ。どちらの作品も初演はマーラーの死後のことである。マーラーを知った最初の頃から現在に到るまで、『大地の歌』や第九交響曲は聴き続けている。アナログLP、CD、DVDのコレクションも続けている。

ケン・ラッセル監督の『マーラー』という映画(1974年)の後半では、マーラーの《家族の中の孤独》がかなり誇張されて描かれている。最愛の妻アルマと最愛の娘たちに囲まれた日々。しかし、マーラーの頑なさはその愛の恩恵に背を向ける。家族が幸せであればあるほど、自分はその一員ではないという焦りを覚える。そこにあるのは隔絶感と孤立感だ。そこでマーラーが味わっているのは、人生のディアスポラ感覚である。

このあたり、ケン・ラッセルの『マーラー』での描き方はいささか純朴すぎるような気もする。だが、さすがはケン・ラッセル監督。映画では、マーラーが列車の中で迎える人生の最後で、個人としてのディアスポラ感覚を超えた、より大きな純朴さへと回帰していく内面が描かれる。それはマーラーの交響曲で言えば、第八番第二部の天使の合唱と、第九番第4楽章の終末部とが同時に奏でられる感覚である。

マーラーが1908年に第七交響曲を自ら初演したとき、その評判はさんざんだった。しかし、マーラーはおそらくそんなことは最初から見通していたはずだ。マーラーはこの交響曲が完成したとき、友人の音楽学者グイード・アドラーに“Septima mea finita est”というラテン語のメッセージを書き送ったという。「我が第七は完成せり」という意味である。マーラーは何かを突き抜け、何かにきっぱりとした形を与えたということだろう。

満50歳でマーラーは死去した。ぼく自身はその年齢を過ぎてしまった。当然のことであるが、死は近づきこそすれ、遠ざかりはしない。自分と百歳ちがいのマーラーの交響曲や歌曲を聴きながら、ぼくは内省的にならざるをえない。ぼくは何かを突き抜けたであろうか。何かに形を与えうるであろうか。破綻を破綻のままで提示できるだろうか。マーラーを聴き続けるのは、自分に対して問を発し続けることでもある。

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