ぼくは小学校高学年からいわゆる「ラジオ少年」であった。コカコーラの懸賞でトランジスタラジオが二台か三台か当選した。ビスを外して、基板を取り出し、いろんなところにドライバーの先端を当てると、いろんな変化があった。特に高周波トランスのあたりに磁石を近づけるとハウリング現象が起きて、ちょっとしたテルミンのような遊びができた。
家にあった時計付きのトランジスタラジオも分解してみた。コアフェラメントのバーアンテナの部分に手を近づけると感度がアップすることを発見。アンテナのリード線と基板の接合部に銅線をつないだ。立派なアンテナになった。ただ長すぎると過変調を起こす。いろいろと試行錯誤したものだ。
小学六年の時、学研の『科学』の付録としてエナメル線をぐるぐる巻いて拵えるゲルマラジオの製作キットが付いてきた。田舎だったものだから放送局の電波塔から遠い。長大なアンテナをつながないとうまく聞こえなかった。そこでぼくはともかく長いアンテナ作りに挑戦する。いわゆるロングワイヤー式である。
ぼくが中学生であったころはラジオがいちばん元気な時代である。学校の授業時間はほとんどリクエストカードを書くのに費やされた。さまざまな新しい手法を使った。文章も練りに練り、イラスト画像にも徹底的に凝った。懸賞ハガキもたくさん出し、めぼしい賞品はだいたいゲットした。ラジオの公開放送があると耳にすれば、必ず押し掛けていた。その場で自分のリクエストカードが読まれるというのが最高の栄誉であった。
自作のラジオドラマも作っていた。シナリオ書いて、効果音も自分で録音してきて、自分の声のピッチを変えながら一人で何役でもやった。かなり高い確率でそのラジオドラマは番組でオンエアーしてもらえた。たまたま中学の学年主任がそれを聴いていた。翌日、それを告げられたときは焦ったものだ。中学校教員には聞かせられないような相当下品な作品だった。
萩本欽一とパジャマ党がやっていたニッポン放送の『欽ドン』(のちにテレビ番組となるが、もとはラジオ番組であった)でも投稿ハガキが読まれた。これは名誉中の名誉だった。ぼくが書いたのは「最後のひとこと」コーナー。「Aの133、以来の恐怖が今年また」という戯れ句である。わからないひとにはわからない。初期からの欽ドンファンにのみ通じるギャグだ。欽ちゃんは言う。「なにこれ~。ひどいじゃないの。ボツ~!」。ぼくはめでたくボツにされた。
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