2011年11月4日金曜日

あの夜のあの「アリア」


 1993年11月19日、今は亡きフリードリヒ・グルダの公演が、東京・三軒茶屋の人見記念講堂で行われた。このホールは、その当時勤めていた職場の施設である。開演前から会場は熱気に包まれていた。グルダの来日は1969年以来3度目である。ぼくは上手側15列目ぐらいのシートだった。

 1曲目はグルダ自身も最も愛好していたと言われるモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)。共演は新日本フィルハーモニー交響楽団。面白かったのは第1楽章の演奏が済んだとき、新日フィルの楽団員たちに「リラックス、リラックス」というサインをグルダがユーモアたっぷりに送ったことだった。コンサートマスターには深呼吸をするようにジェスチャーで指示した。会場は笑いに包まれた。

 モーツァルトのあと、クラヴィノーバを用いたバッハなどの小品がいくつか。そして、いよいよグルダ作曲のピアノ協奏曲「コンチェルト・フォー・マイセルフ」。この曲は、意気消沈したときにぼくがいつも聴く曲だ。グルダのピアノは、あるときは囁き、あるときは強く語り、あるとき踊り、あるときは眠った。そのドライブ感覚に新日フィルもよく付いていったと思う。曲のフィナーレ後、グルダも楽団員もみんな笑顔だった。こんなコンサートはざらにあるものではない。

 万雷の拍手。「ブラヴォー」の声々。指笛。歓声。みんなこぞってスタンディング・オーベイション。座ってる場合ではなかった。拍手はみんな頭の上でやっている。それから続くアンコールの数々。これでもか、という感じでグルダもアンコールの要請に応えてくれる。当然、グルダお気に入りのショパン「舟歌」も弾かれる。これまた当然、「はい、これで最後ですよ」という感じで「辻馬車の歌」も弾かれる。しかし、聴衆は納得しない。アレが演奏されなければダメなのだ。

 アレとは、グルダ作曲の珠玉の名曲「アリア」である。何度も舞台の袖に引っ込んでは、拍手と指笛と歓声によって舞台に引き戻されるグルダは、「じゃ、ホントに最後だよ。何が聴きたい?」と尋ねる。会場一同、声をそろえて「アリア!」。「誰のアリア? ぼくのでいいの?」と、グルダ定番の冗談を言った後、グルダは鍵盤の前に座る。会場は水を打ったように静まる。やがて始まる「アリア」の演奏。至福の時間であった。

「アリア」をグルダ自身の生演奏で聴くのは初めてだった。演奏が終わった後、ぼくは半分放心状態だった。聴衆たちは立ち上がったまま拍手と指笛と歓声をずいぶん長い間続けた。そのうち、ステージのライトが落とされ、客席が明るくなり、出口の扉が開かれた。ぼくは自分のシートに座ったまま、しばらく心の余韻を楽しんでいた。そんなひとが会場の中にはたくさんいた。

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