
中学生のときは学校の図書室にある新聞で用を済ませた。とはいえ、最初はテレビ欄をチェックする程度だった。そのうちぼくを惹きつけたのが、『朝日新聞』のコラム「天声人語」だ。これはあとで知るのだが、当時の執筆者が深代淳郎であった。
「『朝日新聞』をとってほしい」と親に懇願したのは、高校入学前だったか、入学後だったか定かではない。ともかく、高校生になってからまもなく、我が家の郵便受けにも毎朝、新聞が投函されるようになった。最初の数日は欣喜雀躍した。自分の家で「天声人語」が読めることがこよなくうれしかった。
深代淳郎の「天声人語」はその後『深代淳郎の天声人語』という単行本として刊行された。本として組版されたものと、一行の文字数に制限がある新聞紙面とでは、同じ内容であっても印象が異なった。深代淳郎は昭和48年2月から昭和50年11月まで「天声人語」を担当したそうだ。深代は昭和50年12月に息を引き取る。急性骨髄性白血病。46歳であった。
我が家に『朝日新聞』が配達されるようになった頃には、すでに「天声人語」の執筆者は深代淳郎ではなかった。それでも「天声人語」が楽しみだった。その後、自分が魅せられたのが実は深代淳郎の文章であるということを知ってからは、前述の『深代淳郎の天声人語』はもちろん、『続・深代惇郎の天声人語』、『深代惇郎エッセイ集』、『深代惇郎の青春日記』を購入し、二読三読したものである。
「『朝日新聞』以外は購読しない」とヘタに言うと、すぐに思想偏重だと言い立てる輩がいる。だが、ぼくにはぼくなりの『朝日新聞』へのこだわりがある。それは中学生時代に読んだ深代淳郎の「天声人語」に溯る。ちょっとした文章を書いていて、「あ、これは深代淳郎の文体に影響を受けている」と感じることが今でもある。
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