
ぼくは、『文學界』1979年11月号に掲載された対談記事「歴史について」を超える文芸対談記事に、いまだにお目に掛かれないままである。チャンスに恵まれないのはぼくが怠惰になったせいもあるだろう。河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』(中央公論社)の中で、中原中也、萩原朔太郎、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三らを《日本のアウトサイダー》として論じている。
河上は、西欧における「インサイダー」対「アウトサイダー」という対立が、キリスト教の「正統」対「異教徒」に由来すると見る。その上で、「日本にはインサイダーがない」と前提する。「わが国では正統はただアウトサイダーの希望の中にだけあるのだ」と展開する。そして、《日本のアウトサイダー》とは、「いつも個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界にあって、それによって現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいる」、そのような人物なのだと結論する。
いま、ぼくはこの河上徹太郎の言葉に重りをつけて、もう一度自分自身の心の中に垂らしてみようと思う。「個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界」に己れの居場所を決めること。そして、その作業場で、「現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいる」こと。河上徹太郎の生前最後の単行本『史伝と文芸批評』も近いうちに読み直してみようと思っている。そして、当然、小林秀雄との対談「歴史について」もいま無性に読み返したい。少しばかり、河上徹太郎を「鏡」にしてみようと思う。
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