学校に提出する書類には、保護者の署名が求められたり、保護者の記入欄があったりした。小学生以来、ぼくはそうした場合に自分で記入した。己れ自身の筆跡とはあえて変化させた贋筆を弄した。悪意はない。親にそうしろと命じられた。両親とも文字を書くことが不得手であったためだ。
父親は片仮名と平仮名は操ることができたが、ほとんど漢字が書けなかった。読める漢字も少なかった。大正九年生まれの父は、十歳過ぎまでに両親を相次いで喪った。一応、戦前の地主の跡継ぎで、学校に通うことよりも一人前に稼ぎ、田地を守ることが父には要求された。少年だった父を騙して田地を奪い盗ろうとする親族もいたらしい。
母親はぼくにとって継母である。育ての母だ。大正十五年生まれ。片仮名・平仮名も含めて、文字の読み書きはほとんど出来なかった。継母は、徳島祖谷渓の阿佐家の出である。祖谷の阿佐家は平国盛の直系の子孫と伝えられ、いわゆる「平家の赤旗」が屋敷にあったことを継母はぼくに伝えてくれた。
しかし、継母の祖父に当たる人物が「呑む・博つ・買う」で大山師だったらしく、家は衰退、家族は離散してしまう。継母は尋常小学校二年生で徳島市内に子守奉公に出された。そのため母はせっかく覚え掛けた片仮名もほとんど忘れてしまった。なお、その後、阿佐家の屋敷は、名勝地・大歩危(おおぼけ)に移築され、今は「平家屋敷」と称されている。
保護者記入欄の贋筆問題はともかく、両親が文字に不自由だと困ったことが一つあった。それは新聞である。小学生のころは新聞よりも『少年チャンピオン』あたりがあればよかった。別に新聞が我が家にないことに不自由は感じなかった。ところが、さすがに中学生になると新聞が恋しい。我が家にも新聞がほしい。そう思うようになった。
中学校の三年間は、学校の図書室にある新聞で用を済ませた。「高校生になったら新聞をとってほしい」と親に懇願したのは、高校入学前のことだった。高校生になってからまもなく、我が家の郵便受けに『朝日新聞』が投函されるようになった。活字の級数は今よりも小さかった。行送りも控えめで、ぎっしり文字が詰まっていた。それを我が家で読めることがこよなくうれしかった。
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