
その中でも触れられているが、語用論はかつて「言語学のくずかご(wastebascket)」と呼ばれた。今も一部の言語論者は、語用論への不信感や猜疑心を隠そうとはしない。それはそれでいいとぼくは考えている。
このくずかごの中の世界は、外部の人が嗅ぐと、ちょっと饐えた臭みがあるかもしれない。しかし、ぼくにとってはかなりフルーティーなフレーバーだ。ビッグなプラグマティシャンたちの柔軟な発想に日々驚嘆しつつ、今日も己れの固い頭を叩き回しているというのが実際のところだ。
“Pragmatics”の中でジョージ・ユールは、「言語学の諸分野のうちで、語用論だけが人間的なるものに立ち入ることができる」という趣旨のことを記している。ぼくたちは時代遅れの歪んだヒエラルキーや権力構造から解放されて、同じ人間同士として話がしたいものだ。そうした自分の試みを支えてくれているのが語用論である。
さまざまな状況に置かれた、さまざまな学生の、さまざまな自己吐露の言葉を笑顔で聴き入るとき、ぼくは語用論的なるものの重要性をさらに強く感じる。言葉の向こうには人間の心がある。言葉に伴って人間の表情がある。そうした当たり前のことを、構造言語学ではうまく取り扱えない。さまざまなものが「くずかご」に捨てられた。ぼくは「くずかご」を愛する。
その証拠に、ぼくの居住空間も「くずかご」と化している。宿舎の自室にしろ、大学の研究室にしろ、乱雑極まりない。まさに「くずかご」、いや、むしろ「ごみだめ」と言った方がいいかもしれない。が、こうした様相を呈しているのも、語用論を求める心性が自ずと招来しただとお茶を濁す手もある。だが、「くず」の中には宝もある。「ごみ」の中にはぼくを新しい見方に導いてくれる骨董もある。検索効率は確かに悪いのだが、ぼくは自分の部屋が大好きである。
0 件のコメント:
コメントを投稿