
星野富弘も相田みつをも、単純に「詩人」と呼ぶことはできない。まず、相田みつをの場合、毎日書道展系の「近代詩文」で、まずは「書」としての価値が前面にある。相田は、毎日書道展で、最初は「漢字(第一部)」で入選するが、その後、「墨象美術(第三部)」に転向、さらに、その後、「近代詩文(第四部)」に転向して、そこに落ち着く。
相田が書いている言葉。あれは「詩」と称するよりも「禅語」と呼ぶのがふさわしい気がする。しかも曹洞宗系の禅語だ。相田は短歌をやっていたのが縁で、曹洞宗の老師と出会ったという話だ。おそらく少なからず影響を受けているだろう。
かたや、星野富弘の場合。彼はたしかに「詩画」と自称しているので、そのことから見ても、言葉の部分は「詩」であることを意識しているのだと思う。初期の作品に比べると、やはり時代を経るにしたがって、言葉の部分がしだいに詩らしくなってきたような気もする。
だが、やはり、口に絵筆をくわえて描いた花の絵と切り離して、詩の言葉だけを問題にできるまでには、「詩」そのものが自立していない感じがしてならない。また、彼の「詩」は、聖書の「聖句」に裏打ちされた「宗教詩」という側面が強い。「天上の神のみこころのまま」というのが共通テーマだ。だから、どうしても解釈の方向が未然に制限されてしまっている。そこが鼻につきはじめると鼻につく。
相田の「禅語」も、星野の「宗教詩」も、どちらも平明な言葉で書かれているので、言葉それ自体の解釈という点では、もはや、わざわざ教室の中でみんなで知恵をしぼり合って一斉に議論するというような必然性が、ぼくにはあまり感じられない。むしろ「国語」の時間を超えた場面で議論すべきだろうと思う。
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