
マイケル・ウォルツァー(Michael Waltzer)の『寛容について』(みすず書房、大川正彦〔訳〕、2003年:原著 On Torelation. Yale University Press. 1997.)を久しぶりに取り出した。「序文」の中に次のような印象的な表現が出てくる。
「寛容は生(ライフ)そのものを支える。なぜなら迫害(パーセキューション)はおうおうにして死を招くのだから。さらに寛容は共同の生(コモン・ライブズ)、つまりわたしたちが生きているさまざまに異なる共同体を支える。寛容は差異を可能にし、差異は寛容を必要不可欠なものにする。」
あるいは、「寛容についてどのように書くか」というタイトルをもつ序論では次のように述べられる。
「わたしの主題は寛容である。もうすこしうまくいえば、たがいに異なる歴史・文化・アイデンティティをもつ人びとの集団の平和共存、である。これこそ寛容が可能にしてくれるものなのだ。」
アメリカの政治学者であるウォルツァーは、本書の中で多文化主義社会における「寛容」の条件について、政治編成のありかたに従って分類し、それぞれの歴史と未来を検討する。そうした議論を通じて、「寛容」は(政治編成ごとに異なる)政治的な調整実践であり、個人の行動原理などではないと結論する。
それはそうだが、社会は個人の集まりとして何らかの集団らしさを構成し、個人はそうした社会の中でその人間らしく生きていくしかない。ならば、「寛容」という問題を考える際にも個人の認知的条件や社会的条件は外すことができない。
親に虐待されて成長した子どもは、すぐカッとしたり興奮したり暴力的行動をとったりしやすくなるのだという。これは家庭(親子)という社会の中で取り結ばれた人間関係が、その子どもの認知に対して「非寛容」を植えつけてしまったのだと見ることは可能であろう。
個人は社会的条件の制約のもとにあり、社会は成員一人ひとりの認知的条件の相互作用によって制約を受ける。非寛容の事例はどんな社会集団でも容易に観察できる。「相手の自由裁量権を認める」という点だけでは、ぼくの「寛容」の内包としてはまだ不十分だ。「寛容」は相手の高慢なわがままをそのまま受け入れることではない。
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