2011年10月26日水曜日

夢と消えた詫間電波高専


 中学三年生のとき、瀬戸内海を渡った香川県にある詫間電波高専に進学したいと願っていた。建設予定の瀬戸大橋が「夢の架け橋」と呼ばれていた時代だ。第一の理由はわが心の中でふつふつと煮えたぎる「電波熱」であった。しかし、いろいろゴタゴタ続きの家を出て寮生活をしたいという考えもあった。継母の連れ子(すなわちぼくの義理の兄姉)や継母の親族と、人間不信甚だしいオトンとの間では揉めごとが絶えなかった。

 中学三年生。日曜日になるとアンテナを立て替える日々だった。田舎だったから、何でもやりたい放題である。岡山県南部は冬でも晴天続きだ。寒風の中、二階建ての家の屋根に敢然と登って、得意の自作真空管式同調測定装置(ディップメーター)を駆使しながら、ワイヤーの方向と長さを徐々に変えていくときの爽快感。うまく狙った方向と周波数にアンテナがぴたっとチューニングできたときの満足感は、実際にやったことのある人間にしかきっとわかってもらえないだろう。

 その頃、ぼくには片想いの女の子がいたが、「ワシはオナゴよりラジオやアンテナが好きじゃけ。」と友人たちにうそぶいていた頃だ。ぼくとしては進学先は一つしかないと思っていた。それが当時、仙台・熊本と並んで日本に三つしかなかった高周波専門の高等専門学校、詫間電波高専である。略称「電波高」、単に「電波」とも呼ばれていた。ぼくは何も悩むことなく、中学校の進学希望調査票に「詫間電波高専」と書いた。

 ところがである。ラジオ大阪で放送されたぼくの下品なラジオドラマを聴いてくれた学年主任は、学級担任だった英語教員と結託して、寄ってたかってぼくの野望に異を唱えた。もともと自分自身の生き方に自信のないぼくはその策謀にまんまとひっかかり、普通科高校進学に志望先を書き換えさせられた。高校入試の勉強は何もしなかった。入学試験の前日、ぼくは高周波トランジスタ(FET)を使った超短波コンバーター回路を夜遅くまでかけて組み上げた。

 結局、ぼくは普通科高校に進学する。中学三年のとき、己れの我を通して詫間電波高専に進学していたら、当然、いまのようなぼくはない。どちらがよかったのだろうと思うことがある。高校進学後も高周波趣味は続いた。「日本BCL連盟」という全国組織が設立されたのが高校一年のときで、その機関誌『月刊短波』の創刊準備号に原稿を書いたのが、ぼくにとっては初めての〈依頼原稿〉だった。連盟の岡山支部長という肩書きまで頂戴する。日曜日には「中波用ループアンテナ作り講習会」などを岡山市内で主催していた。当然、高校の勉強はそっちのけだった。

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