2011年10月31日月曜日

フィッシュ『このクラスにテキストはありますか』


 ここ十年ぐらい、ぼくのクラスではテキストを使わなかった。いいテキストがないわけではない。よくまとまったテキストはある。穏健な内容のテキストもある。たまには手前味噌に終始するテキストもある。それぞれ良い点もあれば悪い点もある。概説書というのはそういうものだろう。ただ、概説書なるものの欠点は、学生当人が考える前に「答」がそこに書かれてしまっていることだ。

十年の間、せっせと自前のプリントを用意したものだ。パワポのスライド上映をしながらレクチャーを進めることもあった。しかし、やがてどちらもしなくなった。プリントやスライドが事前に準備されていると、ぼく自身もそのあらかじめ定まった流れで話を進めるしかなくなるからだ。もう少し自由にクラスの中で語り、つぶやきたい気がした。

プリントやスライドに依存すると、その結果として、どうしても単調な淀みがクラスに漂い、学生たちは次々に眠っていってしまう。受講学生をこぞって眠らせる上では、文字ばかりのスライドがもっとも有効なようである。逆に、展開や答が事前に提示されていない場合、予想もしなかった方向に受講学生がぼくを導いてくれる。そこに緊張感が走る。

スタンリー・フィッシュの名著に“Is There a Text in This Class?: The Authority of Interpretive Communities”がある。みすず書房から1992年に、小林昌夫氏の訳で『このクラスにテキストはありますか 解釈共同体の権威』という邦訳が出されている。しかし、残念なことにこの邦訳書は原著の全訳でなかった。「解釈共同体」というアイデアで牽引されていくフィッシュの読者論批評は見事である。本書は語用論的思考のためのよきガイド役でもある。

ぼくのクラスには「テキスト」はない。しかし、「テクスト」はある。同じものが大量にコピーされた「テキスト」は学生の机の上にはない。しかし、ぼくが語り、学生がそれに応じることで編み上げられていく「テクスト」は心的に実在する。そのうちのある部分は、黒板に断片的表現としてメモ書きされていく。学生はその黒板のメモ書きに基づいて、自分自身のノートの上に、クラスの中にそのとき満ちている「テクスト」への手掛かりを記しおく。

「先生のクラスにテキストはありますか?」――そう言って、誰か学生が尋ねに来てくれるとうれしいのにな、と思う。前述したフィッシュの名著も、学生のそうしたひと言から語り起こされている。つまり、フィッシュは、十分に学生の些細な呟きに耳を傾けていた。ぼくもまたそうでありたい。つぶやきや語りかけに充ちた時間を過ごしたい。

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