
戦前ドイツを席巻した‘Nazi’は、NAtionalsoZIalist(英語に直せば“National Socialist”)の略で、正式には「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」であった。括弧書きで記したように、「国家社会主義ドイツ労働者党」と訳されることもあり、「国民社会主義ドイツ労働者党」と訳されることもある。例えば、高校生向けの『改訂版 世界史(B)用語集』(山川出版社)でもその両方を併記している。
日本語において、「国家」と「国民」という両語の落差はかなり大きい。両語を自由に入れ替えるとかなり怪しげな結果を生む。「国家公安委員会」を「国民公安委員会」にしたり、「国民生活センター」を「国家生活センター」にしたりすると、漢字一字の違いだがニュアンスは大きく異なる。美空ひばりや三波春夫を「国民的歌手」と呼ぶことに異存はないが、これが「国家的歌手」と呼ばれたら大きな違和感を感じる。
「国民的」が冠せられる語としては、「国民的美少女」や「国民的アイドル」などもある。「国民的美少女」というのは、もとは後藤久美子がデビューするときのキャッチフレーズだったが、その後、「全日本国民的美少女コンテスト」なるものが開催されるようになった。こうなると「国民的」という冠辞はかなり意味的に摩耗しているのがわかる。「国民全体」というよりも、「国民の一部から熱狂的に愛好されている」というニュアンスが強くなっている。
ぼくたちは「国民」という言葉から、「ピープル」(人民)や「シティズン」(市民)に近い概念を連想しがちかもしれない。しかし、政府が「国民的な議論」というときの「国民的」はかなりニュアンスが異なっていると考えた方がよい。この自覚を失うと、「市民」ではなく「臣民」の座に己れを置いてしまうことになる。政府が「国民的な議論」というときの真の意味合いは、「大衆的な議論」という意味では決してない。むしろ、「国家としての議論」なのである。
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