2011年10月29日土曜日

ディスタンスからローカルへ


「BCL」という用語は、1970年代に一気に一般化・大衆化・商業化した。そうした用語は逆にマニアから忌避されるものだ。ぼくも海外放送(特にアジア近隣諸国の放送)を受信することに専念すればするほど、「BCL」という用語にちょっとした隔絶感を覚えるようになっていった。遠距離(Distance)の略語である「DX」を用いた「DXing」「DX'er」という用語の方を好んで用いるようになった。そこには少年らしい思い上がりもある。

三菱電機は、他社にやや遅れて「ジーガム」という名称でBCLラジオを発売した。その発売を機に日本短波放送(NSB:現・ラジオNIKKEI)で『ハロージーガム』というBCL番組が始まった。1974年のことである。MCは肝付兼太氏だった。中学二年のとき、その番組のディレクターさんから電話が掛かってきた。取材の申し込みである。

当時、『ラジオの製作』という雑誌に「みっしぇるの会」というBCLグループを作ったという投稿をした。それが目にとまったらしい。確かに「みっしぇるの会」のゴムスタンプは出来上がっていた。郵便振替口座も開設していた。しかしながら、まだグループとしての実体はなかった。ようやく「入会問い合わせ」のハガキが二~三通届いている程度だった。

ところが、取材までの日程はない。「みっしぇるの会」は実体のないまま取材を受ける。いっそ断ればよかったのだろうが、何事についても依頼ごとが拒めないのがぼくの弱さである。急遽、当時のラジオ仲間だったイタちゃんとマキちゃんに協力を要請した。NSBのディレクターさんが我が家に到着したのは日暮れ時だった。それからデンスケによる録音取材が始まった。

丸刈りの中学二年生三人組にマイクが向けられた。何やら怪しいやりとりが続く。あとで放送を聴いたときは赤面ものだった。ぼくはやたら媚びを売り、イタちゃんは個性的にアンテナについて語り、マキちゃんはボケをかましていた。今も、オンエアーの録音は残っているが、なかなか聴き返す気にはならない。

中学三年生の三学期。ぼくは詫間電波高専へ進学するという夢もあきらめ、近くの普通科高校を受験する。無事合格。高校入学後も「DXing」とその関連活動はずっと続けた。しかし、やがてそうしたアクティビティーから自ずと遠ざかるようになっていった。つまり、いわゆる「BCL」の世界から徐々に離れていった。

その理由の一つは、高校生にして酒を覚えてしまったことである。「DXing」の趣味は、夕方から深夜、さらに早朝にかけてが勝負だ。その時間帯に悪友たちとノミニュケーションに精を出すようになってしまった以上、もはや(雑音を避けるため)蛍光灯をすべて消して静かに「シャック」(受信装置の置かれたデスク)の前に座るストイックさには戻れなかったのだ。呑めや歌えやの毎日はぼくを「ディスタンス」から「ローカル」へと向かわせた。

もう一つは、ある女の子に恋情を抱いてしまったことだ。多少は「いい格好」をするために学業の方にも精を出すようになった。それまでは高校の予習・復習・試験勉強等々、そんな時間はすべて犠牲にしてシャックの前に夜通し座っていた。だが、恋愛の力は人を変える。次第に受信機の電源をONにする回数が減っていった。代わりに、『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』をNSBで聴くようになっていた。趣味も民俗学方面へと移行していく。

折りしも、アジア中波局の周波数刻みが「10kHz」から「9kHz」へと変更となる。ぼくの頭の中にあった周波数表が現実と合致しなくなった。「ああ、ここまでだな……」という感じだった。それが、時期的には「BCLブーム」の衰退とシンクロしていた。「シャックルーム」だったはずのぼくの部屋は、平日は勉強部屋となり、週末は宴会場となった。だが、当分の間は、ぼくの部屋を訪れた高校の悪友たちは、わがシャックの見事さに圧倒されていた。「おまえはスパイか……?」と。

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