
「はぐくむ」という言葉がある。「教育」の「育」は「はぐくむ」と読みなす。嫌いな言葉ではない。親鳥が卵やひなを羽毛で温かく大切にくるんで、その成長を見守る。「はぐくむ」という言葉には、そうした優しさや温かさがあふれている気がする。
一方、「そだつ」「そだてる」という言葉は、どうやら「巣立つ」が語源のようだ。しかし、鎌倉時代の僧である経尊の著した古辞書『名語記』を見ると、
「人のこも鳥獣のこも成長するをば、そだつといへる、そ、如何。そは、そその反、そろそろとおひたつ也。又、すだつをそだつといひなせる歟」
と記されており、詰まるところ、「そだつ」とは「そろそろとおひたつ」ことだと記されている。『名語記』はこの例でもわかるように、かなり独断に満ちた語源説明が多く、その分楽しみながら読むことができる。思えば、ぼく自身も確かに、「そろそろ」と生い立ってきたように思う。
これに対して、「教育」の「教」の方、つまり、「教える」の語源については、定説と言えるものはないようだ。ただ、富山や島原に「おさえる」という方言語形が見られるところから、「おさえる」と同根だという説が有力かもしれない。つまり、悪いところをおさえたり、また、肝腎なところをおさえたりして、未熟な者を指導するという意味になる。
ところが、大槻文彦の『言海』には「おしむ」と同根だと記されている。つまり、「教える」という行為は、相手をいとおしみ、その可能性の花咲かぬを惜しむ思いから起こるということになる。居並ぶ学生を前にして何かを教えている気にはなっていても、そのとき、ぼくは本当に学生一人ひとりの命の輝きを惜しんでいるだろうか。相当懐疑的にならざるをえない。
『書経』説命・下には、「惟みるに、おしふるは学びの半ば」という言葉がある。「教える」ということから、確かに大切なものを教える側も学んでいると思う。「教育」の「教」は「おしむこと」、「育」は「そろそろ生い立つ」こと。こういう読み替えの中に、もしかすると大切なヒントが隠されているのかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿