2011年11月12日土曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(二)


 小林秀雄との対談記事がきっかけとなって、ぼくは河上徹太郎に注目した。河上徹太郎が小林秀雄と実際に対談を行ったのは1979年7月のことであったらしい。掲載誌『文學界』11月号は10月の発売である。河上徹太郎はすでに肺癌の一種に冒されていた。

 河上は9月に北里病院に入院し、10月には国立がんセンターに転院。年の瀬に退院して、それ以降は通院治療を続ける。翌年(1980年)の2月に『厳島閑談』(新潮社)が刊行される。また3月には『史伝と文芸批評』(作品社)が刊行。『厳島閑談』も面白く読めたが、河上徹太郎の本領は『史伝と文芸批評』の方によく発揮されている。

 ぼくが大学2年生になろうとしている頃の話だ。ぼくは何度か『史伝と文芸批評』を読み返した。当時はこの本をいつも枕元に置いていた。いまでも、ぼくのヘーゲル哲学の理解は、この河上徹太郎の著作に手引きしてもらったところから一歩も先に踏み出せていない。

 この『史伝と文芸批評』が結局、河上徹太郎の生前最後の単行本となった。『厳島閑談』、『史伝と文芸批評』と立て続けに2冊を刊行した河上は、3月15日に銀座の酒場で開かれた出版記念と快気祝いを兼ねたパーティーに参加する。しかし、この日、すでに国立がんセンターからは再入院の指示が出されていた。

 1980年(昭和55年)4月2日、国立がんセンターに再入院。それから何度か入退院を繰り返した。死去は9月22日15時5分だったという。ぼくが河上徹太郎という文人に強い興味を抱いてから丸1年も経過しないうちに、この文人は不帰の人となってしまった。

『史伝と文芸批評』の中に出てくる一節がぼくには忘れられない。「文章は自惚れ鏡ではないけれど、自分の文章ほど読んで面白いものはない。」という趣旨のことを書いてある一節だ。これは屈折した書き方をしているけれども、実は文章表現というものに関する重要な指摘だと思う。文章を書き手の立場から見る際に忘れてはならない条件に言及してくれている。

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