「BCLブーム」が全盛期を迎えていた頃、中国は文化大革命のまっただなかにあった。中国に関しては国内の放送事情はほとんど公開されてなかった。当時、その中国をはじめとするアジア近隣諸国のラジオ放送について、極めて精緻で高度なレポート記事を『電波技術』誌にほぼ毎号執筆していたのが長瀬博之氏である。
その長瀬氏が、まだ950kHzだったTBSラジオの裏側に夕方になると混信している中国語局がどこの放送局か確認できないというメモを『電技』誌に投稿していた。長瀬氏は東京在住だった。確認は西日本の方が有利だ。ぼくは、それが「黒竜江人民広播電台」だと確認して、早速受信レポートを『電技』に投稿した。中学一年のときだった。
長瀬氏の強い影響を受けて、ぼくもアジア近隣諸国の中波帯にターゲットを絞った。しかし、朝鮮半島に関しては山下透氏というツワモノがいた。のちに「アジア放送研究会」の理事長として、放送傍受による北朝鮮情勢の分析に携わり、NHK国際放送のアナウンサーとしても活躍した方である。ぼくは朝鮮語・韓国語圏は諦めて、もっぱら中国語や広東語のラジオ放送受信に専念した。
台湾の「高尾漁業広播」の定時放送があることを、ラジオ・スウェーデンの“DX'ers Club”に報告したことがある。国際的に権威ある専門番組だった。報告書の原稿は辞書を引き引き英語で書いた。そのレポートが番組の中で紹介されたときの喜びは今も忘れられない。‘DX'ers’の‘DX’とは‘Distance’の略号であり、遠距離局を表す。ぼくはすでに‘BCL’という用語を使わなくなっていた。自分はすでに‘DX'ers’の一人だという自覚が芽生えていた。
大学卒業を控えた長瀬博之氏は、中学生のぼくと会うために岡山駅で途中下車してくださった。当時のマスカットプラザにあった喫茶店で話をした。最初は興奮してしどろもどろだったのを今でもよく覚えている。卒業後、長瀬氏は松下電器に就職する。ポータブルBCLラジオの傑作、かの「ナショナル クーガー2200」の製品化には、長瀬氏も学生時代から関与していたそうだ。
また、講談社からは、『短波に強くなる―海外放送受信学入門 BCL/DXerへのすすめ』という著書を益本仁雄氏との共著で上梓している(1976年)。今でもこのブルーバックスはぼくの宝物の一つである。味気ないといえば味気ない内容で、関心のない人にはこの本の何が面白いのかわからないだろう。それはそれでいい。しかし、ぼくにとっては、この本のページの裏側に長瀬博之氏の笑顔が透けて見える。黄ばんだページの向こうにあの頃の宝石がある。
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