2011年11月7日月曜日

「誠意って、何かね?」


 例えば、口先では反抗しながら、心の中では「母さん、ありがとう」と唱えていたとしよう。このケースでは社会的には誠実ではないが、認知的には誠実である。あるいは「なんだ、このクソじじい」とむかついたが、取りあえず丁寧に謝っておいたとしよう。これは社会的には実に誠実だが、認知的な誠実さを伴っていない。

 こういう例もある。眠っている息子の髪をやさしくなでて、「さっきはごめんね」と小声で語る母親。いちおうその子に対する「誠実な表現」を声に出して表現してはいるものの、眠っている相手に伝わらない。こういうケースでも、社会的な誠実さは満たしていないと言えよう。

 このように、「認知的誠実さ」と「社会的誠実さ」とは区別できる。前者は当の本人の心中に自ずと湧き起こる誠実さであり、それは外部に向けて表現されない限り隠蔽されている。一方、後者は相手に対しては「誠実な表現」を採っているが、実際それが表現主の本当の思いを反映しているとは限らない。

「誠実さ」という問題を考えるとき、いつも頭をよぎるのが、『北の国から '92 巣立ち』に出てくる菅原文太のせりふだ。トロ子というあだ名で呼ばれるタマコ(祐木奈江)は、黒板純(吉岡秀隆)と付き合ううちに妊娠してしまう。

 純の父・五郎は北海道から飛行機で駆けつける。純から事情を聴き、「とにかく頭を下げて謝ろう」と純を力づける。そうして二人は連れ立って、豆腐屋を営むタマコの叔父のもとに詫びを入れに赴く。

 五郎の手土産はいくつかのカボチャだった。五郎と純はひたすら頭を下げる。そんな五郎に対して菅原文太は言う。

「誠意って、何かね? あんたにとっては、遠くから飛んできて、恥を忍んで頭を下げてる。それで気持ちは済むのかも知れんがね。もしも実際、あんたの娘さんが、現実にそういう立場に置かれたら……。もういい。わかった。これ以上話しても始まらん。」

 ぼくは誰かとお酒を呑むときに、この「誠意って、何かね?」というせりふでよく遊ぶ。まことに便利なせりふで、深刻な場面でも当然使えるし、皆で笑い転げているような場面でも使える。会話が滞って場がシーンとしたときなど、いきなり「誠意って、何かね?」と太い声で口走るだけで会話の接ぎ穂になったりもする。

 とかく「誠意」や「誠実さ」というのはむずかしい。社会的にも認知的にもむずかしい。こちらが誠意を尽くしたつもりでも、先方にはそのようには受け取られないことがある。相手の言動が誠実さを伴ったものか否か判定できないこともある。「わたしは誠意のない不誠実な人間である」と、呑むと真剣に語る人がいる。この人の言葉はそのとき誠意と誠実さに充ちている。

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