
柳美里(ユウ・ミリ)の「レッスン1993 自殺をプログラムする」(文春文庫『自殺』所収)は、一つの「自殺のすすめ」である。1993年7月19日に神奈川県立川崎北高等学校で行われた、自殺をテーマにした「レッスン」の内容がまとめられている。
柳美里自身、14歳のときに自殺未遂の経験をもつ。そういう経験の中から、ひとは「絶望したときに死ぬとは限らない」ということや、ひとは「自我を守るために死を選ぶ」ケースもあるということが語られる。いくつもの自殺の具体的事例の中から、「自殺」という行為がもっている積極的な意味を探っていこうとする。
このレッスンの終盤、柳美里は次のように改めて語り起こす。「最後になりますが、私はここで逆説的に自殺のすすめを皆さんにしたいと思います」。この部分には「死がなければ生もない」という見出しが付けられている。
「私の自殺のすすめというのは、さっきいったように、自分の人生の中に自殺をプログラムすべきだということです。『それでは、まずあなたが死んでみたら』という声が聞こえてきそうだけれども、私は自分の中に自殺をプログラムしていて、書きたいことを書いたら、自殺をするつもりでいます。」
このように柳美里は、「書きたいことを書いたら」という限定付きではあるが、「自殺」を一つのゴールであると意識している。
「問題は死ぬことよりも、死んだように生きることだと思います。(中略)死がなければ生もないんです。永遠に生きられるとしたら、自殺を望むひとというのはものすごく増えるのではないかなと思います。」
確かにそうかもしれない。「死んだように生きる」時間がこの先ずっと続くと予見してしまったとき、ひとは強い絶望感を抱くことだろう。柳美里は、「人生の中に自殺をプログラムする」ことは「生の活性化」になると主張する。そのためには、「生の中に死が潜んでいる」ということに意識を向けることが大事だと強調する。
希死念慮というのは、「心の弱さ」かもしれないし、また、「生の活性化」を常に求めるしたたかさなのかもしれない。さまざまな若者と付き合っていて、ある程度親しくなると、ぼくは「死にたいと思ったことってある?」と尋ねる。程度の差こそあれ、ほとんどの若者は自死願望や自殺衝動を心に抱いたことがあると答える。希死念慮や自殺願望は、何も特別なことではない。
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