2011年11月8日火曜日

Addonizio and Laux “The Poet's Companion” (2)


 日々、気が向いたら「しもどき」や「うたげ」や「くまがひ」をダラダラと書き連ねる。「詩擬き」「歌げ」「句紛ひ」であり、いずれも「もどきもの」「それ風なもの」「まがいもの」である。自分で書くものを「詩」や「ポエム」と呼ぶつもりはない。だが、何らかの「詩情(poetry)」を狙っていないわけではない。「詩的効果(poetic effect)」と呼んでもいい。

『詩人必携―詩を書く楽しさへの誘い』の指南はこんなぼくには実に役立つ。本書の中に置かれた「性愛を描く(Writing the Erotic)」の節では、次のようなアドバイスが記されている。ぼかすところはぼかしているが、本書のアドバイスは実に具体的である。

◆10分間、あなたの(もしくは他の誰かの)過去の出来事で、自分を何らかの形で性愛に目覚めさせてくれた、人生の中でより早く起きた出来事を何にも規制されないで自由に書くこと。リストの中から一つを選び、「最初のセックス」を自分自身の詩を書くためのモデルとして活用すること。言葉の置き換えも試してみること。
◆自分にとって性愛的なものをリスト化すること。例えば、身体の部分や、伝統的なものと非伝統的なもの、食事、物、衣服、言葉、臭い、音。さまざまなカテゴリーの中から7個から10個の語を選んで、それらから詩を作ってみること。
◆淫猥な詩、自分が卑猥だと思うものを書いてみること。その定義は自分自身で行うこと。「性愛的」と「淫猥」の区別についてここで述べるつもりはない。ただ例外的に言えば、これまで耳にしたことのある最も素敵な区別の仕方は、「性愛はわたしが好きなもの。淫猥はあなたが好きなもの。」というものだ。

 ぼく自身の構想の中では、語用論(pragmatics)と詩学(poetics)は密接に結びついている。詩的効果は「詩だけに独占的に与えられた効果」ではない。詩は、日常言語が持っている語用論的効果を巧みに制御しているというだけの話だ。

 日常言語と詩的言語(文芸言語)の間に、何らの隔絶もない。問題になるのは言語使用者(表現者と理解者)の態度なのである。「詩として書く」、あるいは、「詩として読む」――そうした姿勢の中に「詩」が「詩」として成立する駆け引きがある。その種の駆け引きは何も詩をはじめとする文芸だけの話ではない。

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