2011年11月17日木曜日

「恋」と「愛」との違い


「恋」と「愛」とはどう違うのだろう。いろいろな見方があるだろうが、飯田史彦『愛の論理』(PHP文庫)では次のように「恋」と「愛」を区別している。

恋とは、相手が持つ所有物(容姿・性格・才能・富・仕事・家柄などの属性)に価値を感じて一時的に高揚する、『相手に受容されることや相手を支配することによって、相手と一体化したい』と願う感情である。」
愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。」

なかなか周到な定義のしかたである。「恋」が一時的に高揚する単なる〈感情〉であるのに対して、「愛」は決断・意志・能力に支えられた〈行為〉だと言うのだ。ぼくはかねがね、「恋は一瞬にして燃え上がる炎たりうるが、愛は共有した時間の長さである」などと、したり顔で酒呑み相手にまくし立てたりしたものだが、ぼくの言い方なぞ何の定義にもなっていない。

ただ〈行為〉としての「愛」にもウェイトを置きつつ、「恋」の〈感情〉も大切にしたいときだってある。一概に「恋」より「愛」の方が上等だなどとは断言したくない。一時的に高揚する「恋」の〈感情〉がやがて静かに落ち着いていき、なおかつ、相手の幸福を願い成長を支援する〈行為〉としての「愛」をより深く自覚するとき、そこに心のきずなが生まれるのだろう。

場合によっては、相手を支配することを懼れ、むしろ、自ら身を引き、相手を解放することによって成就される「愛」もある。成功ではない幸福。欲望を離れた希望。目標の定まらぬ目的。そうしたものを我が身に引き受ける人生であってもいいではないか。

2011年11月16日水曜日

『歎異抄』(金子大榮・校注)


 住まいの近くに「最賢寺」という浄土真宗大谷派の寺院がある。市の天然記念物にも指定されている銀杏の巨木が境内にあって、秋には黄金の彩りが見事だ。

 この寺は、金子大榮という真宗系仏教学者の生家である。戦前の一時期、金子大榮はおのれの信仰信念を貫いたため、大谷大学の教職を追われたことがある。その後、名誉回復を果たしたが、そうした芯のある思想家ぶりにぼくは長く傾倒してきた。

 高校のとき、倉田百三で親鸞を知ったぼくは、親鸞関係の本を読んだり、さっぱり理解できないまま『歎異抄』や『教行心証』をひもといたりしていた。ぼくが持っていたのはどちらも岩波文庫版で、いずれも金子大榮の校注によるものだった。

 授業に出たくないときは保健室のベッドに転がり込んで読書に励んでいた。最初はいろいろな文庫本をベッドに持ち込んでいたが、やがて『歎異抄』が定番になった。金子大榮の注釈は高校生にとっては不親切きわまりないものであったが、それが逆に自分の力で読み解こうという意欲を駆り立ててくれた気がする。意味が通じるまで何度も読み返した。

 この『歎異抄』の中に出てくる「ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮(こけ)をいだけるものか」という言葉は、ぼくのごまかしの生き方を鋭く射抜いていた。思春期にして出逢ったこの言葉に、ぼくはいまだ射抜かれ続けていると言ってもよい。

 この書を通じて、我が身がとかく「罪悪深重、煩悩熾盛」の凡夫であることを思い知らされたものだ。「金子大榮」という名前を目にするとき、今でもほろ苦い感覚がどことなく伴う。当地に引っ越してきて、その金子大榮の生家が住まいのすぐ近くにあったことは、大きな驚きであり喜びであった。

己れの心で花を狩る


棟方志功の版画に「華狩頌板画柵」という作品がある。この作品について、棟方は自著『板極道』(中公文庫)の中で次のような解説を行っている。

「けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、花だと、心で花を狩る。きれいな心の世界で美を射止めること、人間でも何でも同じでしょうが、心を射とめる仕事、そういうものを、いいなあと思い、弓を持たせない、鉄砲を持たせない、心で花を狩るという構図で仕事をしたのです」

うまいことを言ったものだ。同じようなことを述べた断章は『星の王子さま』の中にも出てくる。有名な次の一節だ。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ。」

だが、残念ながらサン・テグジュペリの言い方はネガティブだ。棟方の言葉はもっと前向きである。心で花を狩る。心で射とめられた花はきっとかけがえのない美しさを放つに違いない。言い換えれば、花はそのとき「心を射とめる仕事」を果たしえたのである。

誰にだって聞く「耳」はある。話す「口」もある。でも、「聞く耳をもたない」人もいる。「何ごとにも口をつぐむ」人もいる。おそらく肝腎なのは耳でも口でもないのだろう。大切なのは「心」。

だとするならば、結局は、自己を顕示するか、自己を隠蔽するかだけの問題となる。二つも三つも「自己」はない。一つの「自己」に二つも三つも「心」はない。

2011年11月15日火曜日

『直筆で読む「人間失格」』(太宰治)


『直筆で読む「人間失格」』(集英社新書ヴィジュアル版)は面白い。この「直筆で読む」シリーズは、最初に『直筆で読む「坊っちゃん」』が出版された。大学生だったとき、漱石の筆蹟や用字法の真似をしていた時期がある。したがって、『直筆で読む「坊っちゃん」』が廉価で発売されたときは欣喜雀躍した。税込1,260円であった。

 それに次ぐ『直筆で読む「人間失格」』は税込1,470円である。ページ数が多いこともあるが、組版や製本に工夫が見られる。『坊っちゃん』ではノドの印刷部分を読むのが大変だった。背の糊が強すぎる。固すぎる。そのため、無理をして開こうとすると本が背で割れてしまう。それに比べて、約1年後に上梓された『人間失格』は実に造本が良い。

「直筆で読む」の新書ヴィジュアル版シリーズはぜひ続けていってほしい。芥川龍之介、宮澤賢治、谷崎潤一郎、川端康成、などなど、「直筆」の写真版を作品単位で手許に置いておきたい作家はたくさんいる。

 近現代の文芸家は活字化されることを前提にして創作しているだろう。活字には活字の読み方がある。「坊っちゃん」にせよ「人間失格」にせよ、集中すれば半日で読める程度の規模だ。だが、直筆原稿となるとそうはいかない。手間やひまが掛かる。しかし、自分の好きな作家の好きな作品なら、手間の掛かる味読熟読も悪くない。量より質を求めたい。

 太宰治の直筆原稿(写真版)を見ていると、いろいろなことに気づかされる。文字が丁寧である。消去部分は完全に線を網状に細かくクロスさせて消している。挿入部分も明確に示されている。一貫して文字に乱れがない。句点・読点も実にわかりやすく記されている。太宰治という人間は、実に几帳面で破綻の少ない物書きであったことが手に取るようにわかる。

 だからこそ、太宰治はアナーキーな破滅型無頼派として、また、アイロニカルな放蕩的エピュキュリアンとして自己演技せざるをえなかったのではあるまいか。おそらく誰にでもそういう「狂人」としての心理傾向はあるはずだ。そうした人間の普遍性に対する一つの思索成果が、太宰治の「人間失格」だったのではなかろうか。

 若い頃、太宰治をずっと嫌悪していた。同族嫌悪であったかもしれない。特に「人間失格」という作品が嫌いだった。本当の「失格」を味わっている人間はこうは書かないと直感したからだ。その直感が当たっていたかどうか、いまだ不明である。

このヒゲ何をもたらすや


ぼくは髪もヒゲも伸び放題の野卑な風貌をしている。頭髪はいつも頭の後ろで束ねているが、その長さはもはやヘソの辺りまである。そんな姿で洗面所の鏡の前に立つと「ヒッピー」という言葉しか思いつかない。だが、ヒッピー風のファッションセンスもない。首から下はごく普通のおじさんスタイルだ。

頭髪は今も伸び続けている。しかし、面白いことにアゴヒゲというのは一定の長さまでしか伸びてくれない。放置しておけば、中国の仙人図のようにヌラヌラと何メートルでも伸びていくのかと思っていた。だが、個人によってリミット値があるようだ。ぼくの場合は、片手で握るのにちょうど良い長さのところで留まっている。

ズック靴やウォーキングシューズなど、かかとのところにつまみが付いている。紐が通せるようになっていることが多い。そのつまみやそこに通す紐のことをブートストラップと呼ぶ。ブートストラップをつまんで自分を持ち上げられるかという問がぼくは好きだ。同様に、自分のあごひげに掴まってぶら下がることができるかという問も楽しい。

ヒゲづらを始めた最初のころ、ある居酒屋の女将さんは「ヒゲの殿下みたい」と言ってくれた。三笠宮寛仁(ともひと)親王のことだ。殿下は自らがアルコール依存症であることをカミングアウトした。ある大学院の女子学生さんは「監督さんみたい」と言ってくれた。「監督」とはおそらく宮崎駿監督のことを指していたのだろう。

多くのひとは「山男みたい」と言った。「雪男」ではない。もしかすると本心は、「山賊みたい」と言いたかったのかもしれない。「海賊みたい」かもしれないし、「盗賊みたい」かもしれない。思えばぼくは「賊」であり「俗」である。「学校の先生のくせに……」とも言われた。口に出さなくてもそう思っている方々は多いだろう。

ぼくがヒゲを剃らなくなったのはただ面倒くさくなっただけだ。特に意味もなく、特段の理由もない。このヒゲづらにいちばん面白い反応を返してくれたのは、今は亡きオトンである。当時、オトンは孤独な入院を続けていた。ぼくは月に一度ほど岡山まで車を走らせてオトンを見舞った。

ヒゲづらになってから最初にオトンの病室を見舞ったとき、オトンは何やらゴソゴソと菓子箱を取り出してきた。おもむろにその箱を開けると、中には電気カミソリがしまってあった。電気カミソリをぼくの目の前にニュッと差し出しながらオトンはこう言った。

「おい。早う剃れ。」

オトンにとってはいかなるヒゲも単なる無精ヒゲでしかない。すべてのヒゲは剃り残しである。ぼくの場合は確かにそれに間違いないのだが、いきなり「早う剃れ」と言われるとやはりおかしかった。思わずぼくは笑った。オトンの前で笑ったのは久しぶりだった。ぼくは当分の間、このヒゲは剃らないだろう。

2011年11月14日月曜日

花田清輝『復興期の精神』


 花田清輝はおもしろい。まずは岩波文庫の『花田清輝評論集』はお薦めである。日本語の文章表現というものが、いかに多様な可能性を秘めているかをここまで端的に示してくれる書き手はそう多くない。少なくとも日本語によるアイロニーとパラドックスの卓越した文章表現者の一人が花田清輝である。

 講談社文芸文庫には『復興期の精神』が収録されている。このエッセイ集は、戦後まもない1946年(昭和21年)10月に我観社から刊行された。花田清輝の誕生日は1909年(明治42年)3月29日であるから、花田清輝37歳だ。

 ここに収められている連作エッセイは、太平洋戦争が開戦する1941年(昭和16年)から「ルネサンス的人間の研究」というシリーズ名で書き継がれていたものである。エッセイの一篇一篇は、韜晦趣味と衒学趣味とをあえてぎらつかせることによって、著者自身の主張をその背面に隠すという手法が随所に見られて、実に痛快である。

 花田清輝は我観社版『復興期の精神』の跋文を次のように書き起こしている。

「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一連のエッセイを書いた。良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された。いまとなっては、殉教者面ができないのが残念でたまらない。思うに、いささかたくみにレトリックを使いすぎたのである。一度、ソフォクレスについて訊問されたことがあったが、日本の警察官は、ギリシア悲劇については、たいして興味がないらしかった。」

 この何とも皮肉めいた書きぶり、逆説的な物言いこそが花田清輝の身上だ。花田自身が述べている通り、彼の文章は「レトリック」に充ちている。美辞麗句に見せかけるための「レトリック」ではない。虚妄を糊塗するための「レトリック」でもない。その「レトリック」を用いなければとうてい伝達できないような含意を発生させるための仕組みなのだ。

 素面のときに読んでも面白いのだが、ほろ酔い気分で読むと花田清輝の文章は実にいい。気持ちよくなる。ページをめくるごとに何度も唸らされる。ぼくは死ぬまでこんな文章は書けないなあと嘆息する。彼は1974年(昭和49年)9月23日に脳出血のために逝去した。満65歳であった。

土星と金星とおじさんと


 車を運転して岡山に向かう途中の話。神戸ジャンクションから山陽道に分岐し、三木というサービスエリアで休憩した。暁ごろのことだ。タバコを一服していると、一人のおじさんに声を掛けられた。

「土星が見えてるで。見まへんか。」

 声の主は、二基連結のでっかい天体望遠鏡を空に向けて構えていた。ぼくは誘われるままに接眼レンズに目を寄せた。ややぼんやりとしているが、確かに輪っかの付いた星が中央にはっきり見えた。ヴィヴィアン・ウェストウッドのロゴマークさながらの神秘的味わいを感じた。

「こっちの方は金星や。どや、ちょうど半月みたいやろ。」

 おじさんにそう言われて、もう一方の望遠鏡をのぞき込む。明けの明星。肉眼でもひときわ明るく輝くのがはっきり見える金星は、本当にお月様ぐらいの大きさに拡大されて見えていた。半分ほど欠けていて、半月そのもの。半身がヴェールで覆われたヴィーナスとでも呼ぶべきだろう。

 おじさんは、天気のいい日の未明には、このサービスエリアで天体望遠鏡を構えるらしい。星をいろんな人に見てもらうのが趣味なのだそうだ。通りがかる一人ひとりに「土星、見まへんか?」と声を掛ける。「うわー、すごい!」と言ってもらえるとホントにうれしそうな表情をして微笑んでいる。

 お話をいろいろ伺うと、狙った星にばっちり方向を定めて、ピントが合った状態に保つのはなかなか大変なことらしい。

「まあ、毎日が練習みたいなもんや。」

 なかなか凄みのある決めぜりふだ。隠れた達人である。曙光が射し始める少し前の忘れられない出来事だった。土星も金星もいいが、ぼくは再びあのおじさんに会いたい。

2011年11月13日日曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(三)


 河上徹太郎が亡くなったあと、ぼくは河上の執筆順序とは逆に、彼の作品を読んでいった。『わが小林秀雄』(昭和出版)、『歴史の跫音』(新潮社)、『わが中原中也』(昭和出版)、『近代史幻想』(文藝春秋)、『吉田松陰の手紙』(潮出版)、『有愁日記』(新潮社)、『吉田松陰――武と儒による人間像』(文藝春秋)。河上徹太郎の文章もクセがある。小林秀雄の文章にも通じる「くろうとの達文」だ。論理がないのに論理があると見せかける技、論理があるのに論理を崩して語る芸、いずれも熟練の技を拝み見ることができる。

 ぼくは、『文學界』1979年11月号に掲載された対談記事「歴史について」を超える文芸対談記事に、いまだにお目に掛かれないままである。チャンスに恵まれないのはぼくが怠惰になったせいもあるだろう。河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』(中央公論社)の中で、中原中也、萩原朔太郎、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三らを《日本のアウトサイダー》として論じている。

 河上は、西欧における「インサイダー」対「アウトサイダー」という対立が、キリスト教の「正統」対「異教徒」に由来すると見る。その上で、「日本にはインサイダーがない」と前提する。「わが国では正統はただアウトサイダーの希望の中にだけあるのだ」と展開する。そして、《日本のアウトサイダー》とは、「いつも個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界にあって、それによって現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいる」、そのような人物なのだと結論する。

 いま、ぼくはこの河上徹太郎の言葉に重りをつけて、もう一度自分自身の心の中に垂らしてみようと思う。「個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界」に己れの居場所を決めること。そして、その作業場で、「現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいる」こと。河上徹太郎の生前最後の単行本『史伝と文芸批評』も近いうちに読み直してみようと思っている。そして、当然、小林秀雄との対談「歴史について」もいま無性に読み返したい。少しばかり、河上徹太郎を「鏡」にしてみようと思う。

車の運転、土地柄のちがい


当地(新潟県上越市)から、。郷里の岡山に戻るとき、上越高田インターチェンジから上信越道に乗って南下、北陸道に合流し、富山・石川・福井・滋賀を抜ける。米原からは名神道に入り神戸ジャンクションで山陽道に抜ける。上信越道は対面通行区間があるが、北陸道から山陽道は全ルートが片側2車線以上となり、走行は楽だ。

ところが、当地に越してきた当初、北陸道は富山県の朝日インターチェンジあたりまで片側1車線の対面通行区間だらけだった。自分が運転する車のすぐあとに、ビューンと大型トラックが迫ってきて、ひたすらパッシングを繰り返す。「とっととどきやがれ!」のサインである。そのうえ、「オラオラオラ!」という感じで蛇行運転する。

生きた気がしなかった。片側1車線では逃げ場所もない。こちらの車は日産サニー15周年特別仕様車1500ccである。アクセルを踏み切っても、家族5人と帰省荷物をたくさん積載した状態では、まったくスピードが出ない。パーキングエリアやチェーン装着用のパーキングゾーンに逃げ込むまで、命からがらの北陸道だった。そんな経験が何度もある。よく今日まで生き延びたものだ。

20年ほど前は茨城県のつくば市で生活していた。土浦ナンバーの車は右折するにしても左折するにしても方向指示のウィンカーを出さなかった。そればかりでなく、右折・左折時に横断歩道を渡っている歩行者がいたらクラクションをブーブー鳴らして蹴散らしていた。歩行者優先ではなく、あくまでも自車優先である。なぜか車体がへこんだ車が多いのも土浦ナンバーの特徴だった。

四国の愛媛、特に松山市内では「伊予の早曲がり」と呼ばれる風習(?)があるらしい。交差点での信号待ちのとき、前方が青信号に変わるのを待たずに右折車が発進し、直進車よりも優先して交差点を通過するのが習慣化しているというのだ。四国は何度か車で一周したことがあるが、香川・徳島は県外ナンバーの車に対して比較的やさしい運転をしてくれた。徳島県警が掲げていた「やわやわ走ろう徳島」というスローガンは好きだった。

ところが、徳島ナンバーの車が県境を越えて土佐の高知に入った瞬間に、高知ナンバーと徳島ナンバーのラリーが始まる。それもハンパではない。高知ナンバーの車は何とかして徳島ナンバーに追い抜こうとする。徳島ナンバーの車はそれを何とかして振り切って、逆列の先頭に出ようとする。「高知でもやわやわ走ろうぜよ徳島」と言いたくなる。同じような現象は愛媛県内でも見られる。四国四県、どうか仲良くやってもらいたい。

郷里の岡山に車で戻ったときにいつも感じるのは、自分が若いころとは運転の仕方が明らかにことなるなという印象だ。運転が荒くなった。粗暴である。確かに、岡山県内の道路事情は良くなった。そのことが逆に、変な競争意識やラリー意識を増大させているのではないかという気がする。12月初旬には、やはり上信越道・北陸道・名神道・山陽道で帰省する予定だ。ぼくは長岡ナンバーである。どうかやさしくしていただきたい。

2011年11月12日土曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(二)


 小林秀雄との対談記事がきっかけとなって、ぼくは河上徹太郎に注目した。河上徹太郎が小林秀雄と実際に対談を行ったのは1979年7月のことであったらしい。掲載誌『文學界』11月号は10月の発売である。河上徹太郎はすでに肺癌の一種に冒されていた。

 河上は9月に北里病院に入院し、10月には国立がんセンターに転院。年の瀬に退院して、それ以降は通院治療を続ける。翌年(1980年)の2月に『厳島閑談』(新潮社)が刊行される。また3月には『史伝と文芸批評』(作品社)が刊行。『厳島閑談』も面白く読めたが、河上徹太郎の本領は『史伝と文芸批評』の方によく発揮されている。

 ぼくが大学2年生になろうとしている頃の話だ。ぼくは何度か『史伝と文芸批評』を読み返した。当時はこの本をいつも枕元に置いていた。いまでも、ぼくのヘーゲル哲学の理解は、この河上徹太郎の著作に手引きしてもらったところから一歩も先に踏み出せていない。

 この『史伝と文芸批評』が結局、河上徹太郎の生前最後の単行本となった。『厳島閑談』、『史伝と文芸批評』と立て続けに2冊を刊行した河上は、3月15日に銀座の酒場で開かれた出版記念と快気祝いを兼ねたパーティーに参加する。しかし、この日、すでに国立がんセンターからは再入院の指示が出されていた。

 1980年(昭和55年)4月2日、国立がんセンターに再入院。それから何度か入退院を繰り返した。死去は9月22日15時5分だったという。ぼくが河上徹太郎という文人に強い興味を抱いてから丸1年も経過しないうちに、この文人は不帰の人となってしまった。

『史伝と文芸批評』の中に出てくる一節がぼくには忘れられない。「文章は自惚れ鏡ではないけれど、自分の文章ほど読んで面白いものはない。」という趣旨のことを書いてある一節だ。これは屈折した書き方をしているけれども、実は文章表現というものに関する重要な指摘だと思う。文章を書き手の立場から見る際に忘れてはならない条件に言及してくれている。

パッシング行為のなぞ


 昨夕、車を運転していると、対向車から「パッシング」を受けた。車をよくご存じない方のために補説すると、ハンドル付近のライトレバーを手前に倒すと、その間だけヘッドライトが点灯する。その操作を2~3回繰り返して、「パ・パ・パッ」という感じで対向車に合図を送るのが「パッシング」である。

「パッシング」は英語では‘passing’だ。これは、「通過中」や「追い越し」を意味する。したがって、語源的には高速道路等で、前方の車に「追い越しますよ」「追い越すから横にどいて」というような意味合いを伝えるのに用いられたのが、どうも「パッシング」の起源であるようだ。

 しかし、この「パッシング」は実はさまざまな役割で用いられる。対向車のパッシング、ぼくが若い頃の岡山県南部事情で言えば、二つの意味があった。一つは「この先で警察がネズミ捕りしてますよ」の警告。そしてもう一つは、昼間なら「ライト点けっぱなしですよ」、夜なら「ハイビームになってますよ」のサインである。

 それで思い出したのが、パッシングの東西差という問題である。例えば、交差点であなたは右折しようとしている。向こうから直進車が近づいてきてパッシングをする。それは何の合図か。それが関東圏と関西圏では異なるというのだ。関東圏では「お先にどうぞ」の意味でパッシングする人が多く、関西圏では「こっちが先に通り抜けるぞ。むやみに曲がるな」という意味でパッシングする人が多いのだそうだ。

 昨日の対向車のパッシングはいったい何であったのだろう。そろそろ暗くなっていたのでスモールランプは点けていたが、別にハイビームになっていたわけではない。だとすると警察の速度取り締まり(いわゆる「ネズミ捕り」)かと思ったが、結局、そうでもなかった。

 知り合いが「やあ、こんにちは」あるいは「こんばんは」の意味で送ってくれたパッシングかもしれない。しかし、現在乗っている車にそれほど特徴があるわけでもなく、ましてやうす暗い夕暮れのことだ。運転席にいるのがぼくであることをはたして見分けることができたのであろうか。

 実はぼくの車に向けてパッシングしたのではなく、先行車両や横から飛び出して来そうな自転車に向けた合図であったかもしれない。パッシングは多義的な「記号」として使用されている。だからこそ、パッシングを受けるたびに推論が必要だ。ぼくの謎はますます深まるばかりだ。

2011年11月10日木曜日

河上徹太郎『史伝と文芸批評』(一)


大学に入学したての頃、『群像』(講談社)、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『文藝』(河出書房新社)、『すばる』(集英社)の、いわゆる「五大文芸誌」を毎月買っていた。最初のころは、実に丁寧に読んでいた。そのうち、自分の気になる作品や記事だけになる。そうして数ヶ月もすると、買うだけで目次にも目を通さなくなっていく。それでも、『文學界』『新潮』『群像』の三誌は、かなり長い間買い求め続けたものだ。そこに何らかの気概があった。

ぼくを仰天させた対談記事が掲載されたのは、『文學界』の1979年(昭和54年)11月号だった。小林秀雄と河上徹太郎による「歴史について」というタイトルの対談である。小林秀雄の文章には、つとに魅力を感じていた。小林秀雄の文章表現を晦渋だ、難解だというひとがいるが、それは小林秀雄の文章を小林秀雄の立場になって読んでいないからだと思われる。ぼくも最初のうちは、自分の読むという行為が遮蔽されているような感覚を覚えた。しかし、それが錯覚であることはゆるゆるとわかった。小林秀雄の文章は実はわかりやすい。

小林秀雄には高校生のときからずっと興味があったものの、河上徹太郎の方は『日本のアウトサイダー』を文庫で読んだことがあるぐらいで、それまでほとんど興味を持っていなかった。ところが、大学入学の年の、前述した『文學界』11月号の対談記事を読んで、ぼくは小林秀雄以上に河上徹太郎という「文人」に強い興味を抱くようになった。その対談記事が掲載された『文學界』は今でもどこかに保管しているのだが、残念ながらすぐ見つからない。そのため直接引用ができないのが残念でならない。

ともかく、わけのわからない対談なのである。「歴史について」というタイトルは、実のところはこの対談記事の内容を端的に示しているわけでもない。二人の文人は、あるときは丁々発止と渡り合い、またあるときは互いにぬらりくらりと話題を逸らす。特に後半になると、おそらくアルコールのせいもあるのだろう、話題の飛躍の仕方は尋常ではない。相手の発言とはほとんど無関係に、自分が思いついたことや思い出したことを言葉にしていく。ところが、それこそが小林秀雄と河上徹太郎という二人の文人の関係性をとてもよく表しているのだ。「文人の交わり」とはこういうものなのかとぼくは憧れた。

昔のこと消せる消しゴム


テレビドラマ『北の国から '95 秘密』の中で、宮沢りえ演じる小沼シュウは「昔のこと消せる消しゴムがあるといい。」と言う。心に残るせりふだ。一方、黒板五郎(田中邦衛)は、シュウの《過去》への拘泥が捨てられない息子の純(吉岡秀隆)に対して次のように叱責する。このとき、純はゴミ収集の仕事をしており、自分の手についた臭いが嫌で、石鹸で洗ってばかりいる。

お前の汚れは、石鹸で落ちる。
けど、石鹸で落ちない汚れってもんもある。
人間、長くやってりゃあ、
どうしたってそういう汚れはついてくる。
お前にだってある。
父さんなんか汚れだらけだ。
そういう汚れは、どうしたらいいんだ、えっ……。

ぼくも「汚れ」だらけだ。そういった「汚れ」のひとつやふたつ、誰にだってある。これを読んで下さっているあなたにも多少はあるはずだ。しかしながら、そうした「汚れ」を抹消してくれる「消しゴム」はない。

もともと、ぼくたちは生まれついたときには純真素朴であったのかもしれない。いや、思春期を経てもなお、「自分だけは純真素朴だ」と信じ込みたいひとだって、たまにはいるだろう。しかし、自分の好きな相手を理想化するならともかく、自分自身を理想化してみても仕方がない。人間、年月が経てばゴミやチリやホコリがつくのは当たり前だ。

むろん、おのれの核とする部分に純真さや素朴さを位置づけておくのは悪いことではない。しかし、生きるとはそういった純真さや素朴さという核の周りに、たんまりとチリ・アクタを付着させることではないのだろうか。かつて話題になったお伊勢名物「赤福」のように、「アン抜き」や「モチ抜き」といった手法で賞味期限を誤魔化すことはできよう。しかし、そんな無理をしてまで、純真さや素朴さをアピールしつづける必要が人生のどこにあるのか。

汚れた者どうしということでいいではないか。それも含めて受け入れ合うことが大切なのではないか。無理をすることはない。人間、数十年も生きていれば、叩けばホコリの出る身体となるのは当然であり、そのホコリを誇りとせよとは言わないが、「お互い、すねに傷のある者同士、言いたくないことは聞かないぜ。」という『鬼平犯科帖』のせりふでいきたいというのがぼくの本音だ。

ぼくたちは過去に立ち戻ることはできないが、未来ならまだ少々ある。今を断ち切ることはできなくても、新しい今をやがてもたらす機会を創り出すことならできる。楽しい時間であっても苦しい時間であっても、人生に「無駄な時間」なんかはないように思う。また、「無駄」にしてはならないのだ。そういう意味では「昔のこと消せる消しゴム」なんかは必要ない。

2011年11月9日水曜日

「ジャネーの法則」改訂版


時間の心理的長さに関する経験則「ジャネーの法則」は、「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する」と定式化された。これだと48歳の自分が感じる時間の長さは、24歳のときの半分ということになる。しかし、ぼくとしては、この計算式は、ある年齢を超えてからの時間の流れの速さについて、見積もりが甘いという気がする。そこでぼくがいつも用いるのは、改訂版「ジャネーの法則」である。それは次のように表される。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の自乗に逆比例する。

「年齢の自乗に逆比例する」とは、「年齢の自乗の逆数に比例する」と言い換えてもいい。たとえば、10の自乗の逆数は0.01、20の自乗の逆数は0.0025、40の自乗の逆数は0.000625、のようになる。このとき、改訂版法則によれば、20歳のときの時間の流れ方は10歳のときに比べて4倍、40歳のときの時間の流れ方はやはり10歳のときに比べて16倍のスピードとなる。

つまり、今ぼくが48歳だとした場合、1日が流れる速度は、小学6年の12歳のときの16倍、高校教員をしていた24歳の4倍のスピードになる。ぼくにしてみればこの方が自分の直感には合っている気がする。あなたがもし今35歳だとしよう。大学を22歳で卒業したとする。大学生だったときの1日は今のあなたにとっての1日よりも2.5倍以上の長さがあったのだ。これが改訂版「ジャネーの法則」が示す数値である。もちろん、数値そのものに厳密な意味があるわけではない。電気力も万有引力も距離の自乗に逆比例するが、それら物理的計測数値と同じように心理的時間の長さの数値を絶対化してはならないだろう。

ただ、ぼくは改訂版「ジャネーの法則」(時間の心理的長さは年齢の自乗に逆比例する)をいつも心に留めている。1日の長さはどんどん短くなっていく。1年の長さはどんどん短くなっていく。ならば、自分はどうすればよいのか。今をどう生きればよいのか。問は常に明確である。しかし、いつもながらぼくのダメな点は、問に対する答をついつい保留してしまう点だ。「まあ、何とかなるさ。」とうそぶいて、日々惰眠をむさぼってしまう点だ。

改訂版「ジャネーの法則」によれば、ぼくの今と、30年前、20年前、10年前、10年後とを比べてみると、今は30年前の7.11倍、20年前の2.94倍、10年前の1.60倍のスピードで時間が流れている。10年後は今の1.46倍の速さになる。つまり、「年齢の自乗に逆比例する」という計算式を当てはめた場合、意識される時間の速さの加速度は次第にゆるやかになっていく。ぼくもゆるやかな曲線部分に入ってきた。「あとはまあ大して違わないだろう」などと舌を出すこともできそうだ。しかし、いま若い方々はどうかご注意あれ。ぼくと同じ失敗を重ねることなかれだ。人生における時間の濃度はけっして一定ではない。

2011年11月8日火曜日

Addonizio and Laux “The Poet's Companion” (2)


 日々、気が向いたら「しもどき」や「うたげ」や「くまがひ」をダラダラと書き連ねる。「詩擬き」「歌げ」「句紛ひ」であり、いずれも「もどきもの」「それ風なもの」「まがいもの」である。自分で書くものを「詩」や「ポエム」と呼ぶつもりはない。だが、何らかの「詩情(poetry)」を狙っていないわけではない。「詩的効果(poetic effect)」と呼んでもいい。

『詩人必携―詩を書く楽しさへの誘い』の指南はこんなぼくには実に役立つ。本書の中に置かれた「性愛を描く(Writing the Erotic)」の節では、次のようなアドバイスが記されている。ぼかすところはぼかしているが、本書のアドバイスは実に具体的である。

◆10分間、あなたの(もしくは他の誰かの)過去の出来事で、自分を何らかの形で性愛に目覚めさせてくれた、人生の中でより早く起きた出来事を何にも規制されないで自由に書くこと。リストの中から一つを選び、「最初のセックス」を自分自身の詩を書くためのモデルとして活用すること。言葉の置き換えも試してみること。
◆自分にとって性愛的なものをリスト化すること。例えば、身体の部分や、伝統的なものと非伝統的なもの、食事、物、衣服、言葉、臭い、音。さまざまなカテゴリーの中から7個から10個の語を選んで、それらから詩を作ってみること。
◆淫猥な詩、自分が卑猥だと思うものを書いてみること。その定義は自分自身で行うこと。「性愛的」と「淫猥」の区別についてここで述べるつもりはない。ただ例外的に言えば、これまで耳にしたことのある最も素敵な区別の仕方は、「性愛はわたしが好きなもの。淫猥はあなたが好きなもの。」というものだ。

 ぼく自身の構想の中では、語用論(pragmatics)と詩学(poetics)は密接に結びついている。詩的効果は「詩だけに独占的に与えられた効果」ではない。詩は、日常言語が持っている語用論的効果を巧みに制御しているというだけの話だ。

 日常言語と詩的言語(文芸言語)の間に、何らの隔絶もない。問題になるのは言語使用者(表現者と理解者)の態度なのである。「詩として書く」、あるいは、「詩として読む」――そうした姿勢の中に「詩」が「詩」として成立する駆け引きがある。その種の駆け引きは何も詩をはじめとする文芸だけの話ではない。

「ジャネーの法則」原典版


 すでに11月を迎え、今年も残すところ2ヶ月足らずだ。早い。つい先日2011年になったような気がするのに、あっという間に10ヶ月以上が経過した。例によって無為徒食の10ヶ月であった。どうして、かくも時間の過ぎ去るスピードは速いのだ。どこかにスピード調整のつまみはないものか。

 意識される時間の早さについては、「ジャネーの法則(Janet's law)」が有名だ。いわゆる「時間の心理的長さ」に関する経験則である。『ミネルヴァ心理学辞典』によると、「ジャネーの法則」は次のように述べられている。

 生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する。

 この法則は、もともとは哲学者ポール・ジャネー(Paul Janet: 1823-1899)が語ったものを、その甥にあたる心理学者のピエール・ジャネー(Pierre Janet: 1859-1947)が著書『記憶の進化と時間観念』(1928年)の中で紹介したものらしい。

 この「ジャネーの法則」によれば、年齢の逆数(1/x)を単純に採用することになる。心理的な時間の長さが「年齢の逆数に比例」するなら、10の逆数(1/10)は0.1、20の逆数(1/20)は0.05、40の逆数(1/40)は0.025、のようになるため、20歳のときの時間の流れ方は10歳のときに比べて2倍、40歳のときの時間の流れ方はやはり10歳のときに比べて4倍のスピードとなる。これが本来の「ジャネーの法則」である。

 仮に現在、ぼくが48歳だとしよう。6歳のときは幼稚園児、12歳のときは小学校6年生、24歳のときは高校の教員をしながら、夜はアマチュア演劇や詩の朗読に入り浸っていた。さて、48歳のぼくが感じている時間の流れの速さは、「ジャネーの法則」に従えば、幼稚園児のときの8倍、小学6年生のときの4倍、24歳のときの2倍のスピードということになる。

 ぼくとしては、その尺度は何となく甘く見積もりすぎている気がする。いかがなものだろう。実はもっと心理的時間の尺度はシビアではないのか。そこでぼくは、「ジャネーの法則」改訂版という尺度を採用することにしている。詳しくは、明日書くことにしよう。

2011年11月7日月曜日

Addonizio and Laux “The Poet's Companion” (1)


 ぼくは「ポエトリー(poetry)」という集合名詞的な呼び方が好きだ。一篇一篇の作品は「ポエム(a poem)」ということになる。ぼくが書き散らすようなものは「ポエム」とは呼べない。近似しているとしても、それはあくまでも見せかけのことだ。詩に擬した表現を気取っているだけ。つまり、「しもどき」にすぎない。だが、「しもどき」であれ、どこかで「ポエトリー」に通じる(その一部領域をかすめる)部分はあると思っている。

『詩人必携―詩を書く楽しさへの誘い』(Addonizio, Kim and Dorianne Laux. The Poet's Companion: A Guide to the Pleasures of Writing Poetry., W. W. Norton and Company. 1997)をパラパラと読んだ。本書は詩作品の実例を挙げながら、それを著者たちの思考の有効な手掛かりにしながら論が進められていく。

 類書は少なくないが、本書の潔さは、「詩(poetry)」というものをそれほど偉大な芸術だとは見なしていない点である。例えば、「書くことと知ること」と題された節の中に「書くためのアイデア」という箇条書きコーナーがあるのだが、その中に次のようなアドバイスが記されている。

◆毎日、ある一定の規則に従って何を行っているか?、シャワー、ジョギング、料理、そういった詩を書いてみよう。その詩の中では、同じ行為をするにも他の人はやってなさそうな、自分ならでは特別なやり方に目をつけてみよう。
◆好きなことは何か? 嫌いなことは何か? それを2列に分けてリストアップしよう。そして、自分が好きなことと嫌いなことを結びつけた詩を書いてみよう。
◆「私は知らない……」という表現で詩を書き始めてみよう。自分が知らないことがいくつもリストアップされるだろう。そうしたらその中のどれかに焦点を合わせる。

 このような感じで、実に指示が具体的だ。ただそうやって作り上げられる個々の文章が常に「詩(poem)」でありうるかどうか、ぼくには自信がない。ただ、書いた本人がそのつもりなら、その文章は「詩的作品(poetic work)」ではありうるだろう。「詩」なんてものは、その程度の融通の利く自己確信があれば、それでいい。

「誠意って、何かね?」


 例えば、口先では反抗しながら、心の中では「母さん、ありがとう」と唱えていたとしよう。このケースでは社会的には誠実ではないが、認知的には誠実である。あるいは「なんだ、このクソじじい」とむかついたが、取りあえず丁寧に謝っておいたとしよう。これは社会的には実に誠実だが、認知的な誠実さを伴っていない。

 こういう例もある。眠っている息子の髪をやさしくなでて、「さっきはごめんね」と小声で語る母親。いちおうその子に対する「誠実な表現」を声に出して表現してはいるものの、眠っている相手に伝わらない。こういうケースでも、社会的な誠実さは満たしていないと言えよう。

 このように、「認知的誠実さ」と「社会的誠実さ」とは区別できる。前者は当の本人の心中に自ずと湧き起こる誠実さであり、それは外部に向けて表現されない限り隠蔽されている。一方、後者は相手に対しては「誠実な表現」を採っているが、実際それが表現主の本当の思いを反映しているとは限らない。

「誠実さ」という問題を考えるとき、いつも頭をよぎるのが、『北の国から '92 巣立ち』に出てくる菅原文太のせりふだ。トロ子というあだ名で呼ばれるタマコ(祐木奈江)は、黒板純(吉岡秀隆)と付き合ううちに妊娠してしまう。

 純の父・五郎は北海道から飛行機で駆けつける。純から事情を聴き、「とにかく頭を下げて謝ろう」と純を力づける。そうして二人は連れ立って、豆腐屋を営むタマコの叔父のもとに詫びを入れに赴く。

 五郎の手土産はいくつかのカボチャだった。五郎と純はひたすら頭を下げる。そんな五郎に対して菅原文太は言う。

「誠意って、何かね? あんたにとっては、遠くから飛んできて、恥を忍んで頭を下げてる。それで気持ちは済むのかも知れんがね。もしも実際、あんたの娘さんが、現実にそういう立場に置かれたら……。もういい。わかった。これ以上話しても始まらん。」

 ぼくは誰かとお酒を呑むときに、この「誠意って、何かね?」というせりふでよく遊ぶ。まことに便利なせりふで、深刻な場面でも当然使えるし、皆で笑い転げているような場面でも使える。会話が滞って場がシーンとしたときなど、いきなり「誠意って、何かね?」と太い声で口走るだけで会話の接ぎ穂になったりもする。

 とかく「誠意」や「誠実さ」というのはむずかしい。社会的にも認知的にもむずかしい。こちらが誠意を尽くしたつもりでも、先方にはそのようには受け取られないことがある。相手の言動が誠実さを伴ったものか否か判定できないこともある。「わたしは誠意のない不誠実な人間である」と、呑むと真剣に語る人がいる。この人の言葉はそのとき誠意と誠実さに充ちている。

2011年11月5日土曜日

俵万智『サラダ記念日』


 ご存じの通り7月6日は「サラダ記念日」である。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智の短歌集『サラダ記念日』が出版されたのは1987年(昭和62年)5月のことだ。その前年に角川短歌賞を受賞。俵万智というのは本名である。1962年(昭和37年)12月31日、大阪府生まれ。その後、福井県武生(たけふ)市(現在は越前市)で少女期を過ごす。福井市内にある県立藤島高等学校に通ったが、武生から藤島高校に通う際、「田原町(たわらまち)」という駅を利用した。自分の名前と同じ読み方の駅である。

高校卒業後、俵万智は早稲田大学第一文学部国文科に進学する。高校のとき演劇部だった彼女は、大学では「アナウンス研究会」に入る。また、歌人で研究者の佐佐木幸綱に師事して短歌の創作を始めたのも大学生のときからだという。俵万智自身が歌人として作品を世に問うようになったのは、神奈川県相模原市橋本にある県立橋本高等学校勤務中のことだ。俵万智は国語科教諭だった。有名な次の短歌が『サラダ記念日』には収められている。

万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

俵万智の『サラダ記念日』が刊行されたころ、ぼくはぼくなりに、「青春」と呼べる時代が過ぎつつあるということを意識していた。高校の国語科教諭を辞して修士課程の大学院生の身となったぼくには、日々の時間の流れはぼんやりとしたものに感じられた。そんな中で『サラダ記念日』を書店で手にした。こんな短歌があった。

青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる

その後、数年が経過して日本海側に移り住んでから、季節を問わずよく海を見に出掛けるようになった。そんなとき、沖を眺めながら『サラダ記念日』の中の次の短歌をよく反芻する。

今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海

ともかく7月6日は「サラダ記念日」なのだ。実は、「七月六日はサラダ記念日」という短歌によって「記念日」という名称が広く一般に定着したのだという。そうした理由で、7月6日は「日本記念日学会」によって「記念日の日」とされている。「記念日の記念日」、すなわち、「メタ記念日」である。

その後、俵万智はシングル・マザーとして生きる道を選ぶ。神奈川県の県立高校の国語科教諭のままならどういう将来であっただろうか。「青春」という文字は確かに横線が多いが、縦線も斜め線もちゃんと混じっている。桂馬飛びの人生も悪くない。

「東京卒業」を決めたあの夜


『北の国から '92 巣立ち』のタマコ役・祐木奈江は可憐だ。渋谷道玄坂あたりのラブホテルで純(吉岡秀隆)とタマコは結ばれる。その寸前まで高倉健主演の『南極物語』のビデオが流れていた。純はその画面に見入るタマコを見て、健さんに嫉妬するのであったが、視聴者側のぼくとしては当然、吉岡秀隆に嫉妬してしまうわけだ。

 トロ子というあだ名をもつタマコは、純とそうした付き合いをしているうちに妊娠してしまう。純の父・黒板五郎は北海道からカボチャを持って上京する。豆腐屋を営むタマコの叔父(菅原文太)は、そんな五郎を威喝する。かくして若い二人に別れがやってくる。ブランコのある小さな公園。郷里の鹿児島に帰ることを決意したタマコが言う。

「東京はもういい。あたし、卒業する。……純君とのこと、楽しかった。あたし全然、後悔してないから。」

「東京卒業」――これは、ドラマシリーズ『北の国から』を通して一貫しているひとつのサブテーマである。

『北の国から '95 秘密』では、宮沢りえ演じるシュウが複雑な役柄を切なく演じている。純は、自分と同じく東京から北海道へ戻ってきた過去を持つシュウに、「東京は楽しかった?」と尋ねる。シュウは「……うん……。そっちは?」と言葉を濁す。この問に対して純は次のように答える。

「卒業した……。東京は、もう。」

 ぼく自身が「東京卒業」を決意した日のことは今もはっきりと覚えている。1993年11月19日のことであった。時刻は22時ごろである。これほど明確に日時を特定できる人間はそう多くないと思う。東京・三軒茶屋のビルと首都高の高架との間から見える星空を見上げて、ぼくは「東京はもう卒業だな」と思った。もう思い残すことはない気がした。失意からではない。満足感からであった。

 この夜、そのころ勤めていた大学の敷地内にある人見記念講堂でフリードリヒ・グルダの公演があった。アンコール演奏の最後の曲は、グルダ自作の「アリア」であった。演奏後もしばらくホールの中に留まった。観客最後の一団に混じって外へ出た。会場の中は熱気にあふれていたので、11月の夜風はかなりひんやりと感じた。しかし、心の中はあたたかさに充ちていた。

そのときぼくの頭に浮かんだのが、「東京はもう卒業してもいいな」という感覚だった。人見記念講堂がある大学には「5年間は連続勤務する」という条件で雇用されたのだったが、ぼくはその契約を破って4年で別の大学に移る決意をした。それがぼくにとっての「東京卒業」となった。やや身勝手な「東京卒業」である。

2011年11月4日金曜日

相田みつを『にんげんだもの』


 昨今の国語の授業では、星野富弘や相田みつをなどの作品が採り上げられることも多い。星野や相田が書き残している言葉に、特段、解釈の困難点は見られない。むしろ、解釈そのものよりも、それを飛ばして、己れの人生観とどのようにつなげて読むかということが問われる。

 星野富弘も相田みつをも、単純に「詩人」と呼ぶことはできない。まず、相田みつをの場合、毎日書道展系の「近代詩文」で、まずは「書」としての価値が前面にある。相田は、毎日書道展で、最初は「漢字(第一部)」で入選するが、その後、「墨象美術(第三部)」に転向、さらに、その後、「近代詩文(第四部)」に転向して、そこに落ち着く。

 相田が書いている言葉。あれは「詩」と称するよりも「禅語」と呼ぶのがふさわしい気がする。しかも曹洞宗系の禅語だ。相田は短歌をやっていたのが縁で、曹洞宗の老師と出会ったという話だ。おそらく少なからず影響を受けているだろう。

 かたや、星野富弘の場合。彼はたしかに「詩画」と自称しているので、そのことから見ても、言葉の部分は「詩」であることを意識しているのだと思う。初期の作品に比べると、やはり時代を経るにしたがって、言葉の部分がしだいに詩らしくなってきたような気もする。

 だが、やはり、口に絵筆をくわえて描いた花の絵と切り離して、詩の言葉だけを問題にできるまでには、「詩」そのものが自立していない感じがしてならない。また、彼の「詩」は、聖書の「聖句」に裏打ちされた「宗教詩」という側面が強い。「天上の神のみこころのまま」というのが共通テーマだ。だから、どうしても解釈の方向が未然に制限されてしまっている。そこが鼻につきはじめると鼻につく。

 相田の「禅語」も、星野の「宗教詩」も、どちらも平明な言葉で書かれているので、言葉それ自体の解釈という点では、もはや、わざわざ教室の中でみんなで知恵をしぼり合って一斉に議論するというような必然性が、ぼくにはあまり感じられない。むしろ「国語」の時間を超えた場面で議論すべきだろうと思う。

あの夜のあの「アリア」


 1993年11月19日、今は亡きフリードリヒ・グルダの公演が、東京・三軒茶屋の人見記念講堂で行われた。このホールは、その当時勤めていた職場の施設である。開演前から会場は熱気に包まれていた。グルダの来日は1969年以来3度目である。ぼくは上手側15列目ぐらいのシートだった。

 1曲目はグルダ自身も最も愛好していたと言われるモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)。共演は新日本フィルハーモニー交響楽団。面白かったのは第1楽章の演奏が済んだとき、新日フィルの楽団員たちに「リラックス、リラックス」というサインをグルダがユーモアたっぷりに送ったことだった。コンサートマスターには深呼吸をするようにジェスチャーで指示した。会場は笑いに包まれた。

 モーツァルトのあと、クラヴィノーバを用いたバッハなどの小品がいくつか。そして、いよいよグルダ作曲のピアノ協奏曲「コンチェルト・フォー・マイセルフ」。この曲は、意気消沈したときにぼくがいつも聴く曲だ。グルダのピアノは、あるときは囁き、あるときは強く語り、あるとき踊り、あるときは眠った。そのドライブ感覚に新日フィルもよく付いていったと思う。曲のフィナーレ後、グルダも楽団員もみんな笑顔だった。こんなコンサートはざらにあるものではない。

 万雷の拍手。「ブラヴォー」の声々。指笛。歓声。みんなこぞってスタンディング・オーベイション。座ってる場合ではなかった。拍手はみんな頭の上でやっている。それから続くアンコールの数々。これでもか、という感じでグルダもアンコールの要請に応えてくれる。当然、グルダお気に入りのショパン「舟歌」も弾かれる。これまた当然、「はい、これで最後ですよ」という感じで「辻馬車の歌」も弾かれる。しかし、聴衆は納得しない。アレが演奏されなければダメなのだ。

 アレとは、グルダ作曲の珠玉の名曲「アリア」である。何度も舞台の袖に引っ込んでは、拍手と指笛と歓声によって舞台に引き戻されるグルダは、「じゃ、ホントに最後だよ。何が聴きたい?」と尋ねる。会場一同、声をそろえて「アリア!」。「誰のアリア? ぼくのでいいの?」と、グルダ定番の冗談を言った後、グルダは鍵盤の前に座る。会場は水を打ったように静まる。やがて始まる「アリア」の演奏。至福の時間であった。

「アリア」をグルダ自身の生演奏で聴くのは初めてだった。演奏が終わった後、ぼくは半分放心状態だった。聴衆たちは立ち上がったまま拍手と指笛と歓声をずいぶん長い間続けた。そのうち、ステージのライトが落とされ、客席が明るくなり、出口の扉が開かれた。ぼくは自分のシートに座ったまま、しばらく心の余韻を楽しんでいた。そんなひとが会場の中にはたくさんいた。

2011年11月3日木曜日

G. ユール『プラグマティックス』


 言語学に「語用論(プラグマティックス:pragmatics)」という探求姿勢・研究方法がある。語用論の入門書・概説書として最も優れているのが、言語学者ジョージ・ユール(George Yule)の“Pragmatics”である(邦訳:高島正夫〔訳〕『ことばと発話状況―語用論への招待』 リーベル出版)。

 その中でも触れられているが、語用論はかつて「言語学のくずかご(wastebascket)」と呼ばれた。今も一部の言語論者は、語用論への不信感や猜疑心を隠そうとはしない。それはそれでいいとぼくは考えている。

 このくずかごの中の世界は、外部の人が嗅ぐと、ちょっと饐えた臭みがあるかもしれない。しかし、ぼくにとってはかなりフルーティーなフレーバーだ。ビッグなプラグマティシャンたちの柔軟な発想に日々驚嘆しつつ、今日も己れの固い頭を叩き回しているというのが実際のところだ。

“Pragmatics”の中でジョージ・ユールは、「言語学の諸分野のうちで、語用論だけが人間的なるものに立ち入ることができる」という趣旨のことを記している。ぼくたちは時代遅れの歪んだヒエラルキーや権力構造から解放されて、同じ人間同士として話がしたいものだ。そうした自分の試みを支えてくれているのが語用論である。

 さまざまな状況に置かれた、さまざまな学生の、さまざまな自己吐露の言葉を笑顔で聴き入るとき、ぼくは語用論的なるものの重要性をさらに強く感じる。言葉の向こうには人間の心がある。言葉に伴って人間の表情がある。そうした当たり前のことを、構造言語学ではうまく取り扱えない。さまざまなものが「くずかご」に捨てられた。ぼくは「くずかご」を愛する。

 その証拠に、ぼくの居住空間も「くずかご」と化している。宿舎の自室にしろ、大学の研究室にしろ、乱雑極まりない。まさに「くずかご」、いや、むしろ「ごみだめ」と言った方がいいかもしれない。が、こうした様相を呈しているのも、語用論を求める心性が自ずと招来しただとお茶を濁す手もある。だが、「くず」の中には宝もある。「ごみ」の中にはぼくを新しい見方に導いてくれる骨董もある。検索効率は確かに悪いのだが、ぼくは自分の部屋が大好きである。

「懐かしいG.の訪れ」


 おそらく十代終盤からこの年齢に到るまで、ぼくが最も多くの回数を聴いたピアノ曲は、フリードリヒ・グルダの「アリア」であろう。事あるたびにこの「アリア」に立ち戻った。グルダ自作の名曲である。グルダ作曲のピアノ小品では、わが子のために創作した「パウルのために」や「リコのために」もいい。グルダの子息であるパウルもリコも、成長してピアニストとして活躍し、マルタ・アルゲリッチとの共演コンサートも行っている。ちなみにグルダの二番目のおつれあいは日本人で、うちの長女と同じ読みの名前である。

 ぼくがグルダの「アリア」と出逢ったのは十代の終わりであった。親友が持っていた“Message From G.”という6枚組のLP(国内販売は『メッセージ・フロム・グルダ』というシリーズ名でI・II・IIIの各2枚組3セット)に収められていた。残念ながらこの怒濤の実況録音盤はまだCD化されていない。とにかく何でもありの演奏が続く。グルダが提唱する「フリー・ミュージック」が活き活きと体現された名盤だ。

 この中に収められた「アリア」の演奏は貴重である。国内盤では3枚目のB面だ。グルダは左手でピアノを、右手でクラヴィコードをチェンバロ風に弾いている。そのようにして奏でられる「アリア」の美しいこと、美しいこと。演奏の最後あたりで、「これがいわゆるダ・カーポだよ」とボソッとしゃべる。そのグルダのユーモアあふれる解説に、聴衆から笑い声があがる。たちまち第一動機に戻って情感たっぷりのフィナーレを迎える。聴衆は泣き笑いの状態に置かれる。あとは黙って珠玉の旋律と演奏に酔うしかない。

 グルダは2000年1月27日に他界した。その前年3月、彼は自分が死去したというウソの情報をわざと流し、マスコミを騒がせる。しかし、その数日後にグルダは「蘇生」する。そうして、自ら「復活」を祝うコンサートを開催して世間の物議を醸した。こうした社会に対するある種の不誠実さがグルダの魅力である。『メッセージ・フロム・グルダ』はCD化されていない。今夜は久しぶりにレコードプレーヤーとアンプに火を入れて聴くことにしよう。『メッセージ・フロム・グルダ III』のキャッチコピーは「懐かしいG.の訪れ」である。

2011年11月2日水曜日

三木清『語られざる哲学』


 三木清といえば、すぐに『人生論ノート』ということになりがちだが、実は『語られざる哲学』(講談社学術文庫)もそれに劣らず面白い。『読書と人生』(新潮文庫)の巻頭に収められた「我が青春」と題されたエッセイを三木清は次のように書き始めている。

「去年の暮、ふと思い附いて昔の詩稿を探していたら『語られざる哲学』と題する旧(ふる)い原稿が見附かった。百五十枚ばかりのもので、奥書には『千九百十九年七月十七日、東京の西郊中野にて脱稿』と誌してある。あの頃は九月には新学年が始まることになっていたから、ちょうど大学の二年を終えた時で、私の二十三の年である。」

その二十歳過ぎの年齢で書かれた『語られざる哲学』の冒頭部分において、三木清は次のように述べている。

「懺悔は語られざる哲学である。それは争いたかぶる心のことではなくして和らぎへりくだる心のことである。講壇で語られ研究室で論ぜられる哲学が論理の巧妙と思索の精緻とを誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないように努力する。語られる哲学が多くの人によって読まれ称賛されることを求めるのに反して、語られざる哲学はわずかの人によって本当に同情され理解されることを欲するのである。」

何とすてきな語り起こしの仕方ではないか。「和らぎへりくだる心」。「純粋なる心情と謙虚なる精神」。忘れないようにしたいものだ。若き日の三木清の言葉だが、だからこそキレイゴトに満ちている。そこに輝きがある。

三木清は、大正11年(1922)、25歳のときに岩波茂雄からの資金援助を得てドイツに留学し、ハイデッガーに師事する。岩波茂雄は大正2年(1913)に神保町で古書店の営業を開始し、当時一般の値切り商法ではなく「正札商法」で読書子のココロを捉える。茂雄念願の出版事業のさきがけは、夏目漱石の『こゝろ』だった。漱石自身が凝りに凝った装幀を施した同書は快調な売り上げとなり、書肆・岩波書店の屋台骨を支えることになる。

青もまた白いのである


 虫の声がベランダの外から響いてくる。もうかすかな声だ。秋が到来した頃の音量や勢いはもはやない。秋も深まってきたということだ。

「むしのこえ」という小学校唱歌がある。「あれ松虫が、鳴いている/ちんちろちんちろ、ちんちろりん」の、あれだ。「あれ鈴虫も、鳴きだした/りんりんりんりん、りいんりん」と続く。そして、「秋の夜長を、鳴き通す/ああおもしろい、虫のこえ」で第一番終了。

 子どもはしばしばこの「ああおもしろい」を「青も白い」と聞きなす。子どもなりに不思議に思う。「なぜ青が白いのだろう」。そう考える。実はぼくもそういう幼児だった。歌は「むしのこえ」ではなかったが、発想は同じだった。

 幼稚園には一年間だけ通った。あまり愉快な思い出はない。ぼくは暗い幼稚園児だった。特に雨の日のことを思い出すと、今でも心がへしゃげる思いだ。雨の日は憂鬱だった。「おうちのひと」のお迎えが必要だったからだ。ぼくは毎回最後の最後まで取り残された。

 それはともかく、この幼稚園では毎日の「かえりの会」で「手をたたきましょう」という歌を唄った。。「かえりの会」は、雨天を除く毎日、園庭で行われた。園児たちは園庭に組ごとに整列。並び終わるや「手をたたきましょう」の合唱である。

歌い出しは「手をたたきましょう」。そのあと、「タンタンタン タンタンタン」と続く。「足ぶみしましょう タンタンタンタン タンタンタン」だ。「笑いましょう アッハッハ」のフレーズが繰り返されて、コーラスの最後は「ああおもしろい」となる。

その「ああおもしろい」の歌詞が、当時のぼくには「青も白い」と聞こえた。そう理解して唄っていた。ほぼ毎日である。思い込みというのは本当に恐ろしい。「アッハッハ アッハッハ」と言っているのだから、「ああ、面白い」と理解すればいいものを、人間というのは不思議なものである。

 何とも理不尽な歌だとぼくは内心訝しく思っていた。「青」が「白」であるとはいかなることか。そんなケッタイなことが世の中にはあるのか。これには何か深い奥の意味があるに違いない。だが、その奥の意味がわからない。言葉は言葉として放置され、その放置された言葉をぼくは毎日の「かえりの会」で唄わされていた。

2011年11月1日火曜日

ウォルツァー『寛容について』


 マイケル・ウォルツァー(Michael Waltzer)の『寛容について』(みすず書房、大川正彦〔訳〕、2003年:原著 On Torelation. Yale University Press. 1997.)を久しぶりに取り出した。「序文」の中に次のような印象的な表現が出てくる。

「寛容は生(ライフ)そのものを支える。なぜなら迫害(パーセキューション)はおうおうにして死を招くのだから。さらに寛容は共同の生(コモン・ライブズ)、つまりわたしたちが生きているさまざまに異なる共同体を支える。寛容は差異を可能にし、差異は寛容を必要不可欠なものにする。」

 あるいは、「寛容についてどのように書くか」というタイトルをもつ序論では次のように述べられる。

「わたしの主題は寛容である。もうすこしうまくいえば、たがいに異なる歴史・文化・アイデンティティをもつ人びとの集団の平和共存、である。これこそ寛容が可能にしてくれるものなのだ。」

 アメリカの政治学者であるウォルツァーは、本書の中で多文化主義社会における「寛容」の条件について、政治編成のありかたに従って分類し、それぞれの歴史と未来を検討する。そうした議論を通じて、「寛容」は(政治編成ごとに異なる)政治的な調整実践であり、個人の行動原理などではないと結論する。

 それはそうだが、社会は個人の集まりとして何らかの集団らしさを構成し、個人はそうした社会の中でその人間らしく生きていくしかない。ならば、「寛容」という問題を考える際にも個人の認知的条件や社会的条件は外すことができない。

 親に虐待されて成長した子どもは、すぐカッとしたり興奮したり暴力的行動をとったりしやすくなるのだという。これは家庭(親子)という社会の中で取り結ばれた人間関係が、その子どもの認知に対して「非寛容」を植えつけてしまったのだと見ることは可能であろう。

 個人は社会的条件の制約のもとにあり、社会は成員一人ひとりの認知的条件の相互作用によって制約を受ける。非寛容の事例はどんな社会集団でも容易に観察できる。「相手の自由裁量権を認める」という点だけでは、ぼくの「寛容」の内包としてはまだ不十分だ。「寛容」は相手の高慢なわがままをそのまま受け入れることではない。

百歳ちがいのマーラーは問う


グスタフ・マーラーが生まれた1860年と言えば、日本では安政から万延に改元される年だ。咸臨丸がサンフランシスコに到着し、桜田門外の変で井伊直弼大老が殺害され、エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に就任した年である。

大江健三郎の快作『万延元年のフットボール』は、その1860年(万延元年)と百年後の1960年とが寓意的な対照性を保ちながら語られる。1960年と言えば安保闘争の年だ。ぼくが生まれたのもその1960年であった。ぼくはマーラーの百年後に生まれた。

百年の差だと計算がしやすい。ぼくはマーラーにのめり込んでからというもの、自分の年齢のときにマーラーが何をしていたかが気になった。例えば、マーラーが第一交響曲を完成させたのは1888年3月である。マーラー27歳。初演は1889年の終わり。マーラー29歳。ちょうどぼくも28歳から29歳にかけて、自分の生き方の屈折点に差し掛かっていた。

その頃は「タイタン」という標題が付けられたこの第一交響曲を意識的に繰り返し聴いた。そうすることで自分を鼓舞しようと思った。この処女交響曲の初演の際、聴衆は戸惑い、評論家も非難の嵐をマーラーに向けたという。そうした逸話がぼくの心の支えにもなった。

マーラーについて語る多くの人が、『大地の歌』や交響曲第九番からこの作曲家に取り憑かれるようになったと回顧する。ぼくも同じだ。どちらの作品も初演はマーラーの死後のことである。マーラーを知った最初の頃から現在に到るまで、『大地の歌』や第九交響曲は聴き続けている。アナログLP、CD、DVDのコレクションも続けている。

ケン・ラッセル監督の『マーラー』という映画(1974年)の後半では、マーラーの《家族の中の孤独》がかなり誇張されて描かれている。最愛の妻アルマと最愛の娘たちに囲まれた日々。しかし、マーラーの頑なさはその愛の恩恵に背を向ける。家族が幸せであればあるほど、自分はその一員ではないという焦りを覚える。そこにあるのは隔絶感と孤立感だ。そこでマーラーが味わっているのは、人生のディアスポラ感覚である。

このあたり、ケン・ラッセルの『マーラー』での描き方はいささか純朴すぎるような気もする。だが、さすがはケン・ラッセル監督。映画では、マーラーが列車の中で迎える人生の最後で、個人としてのディアスポラ感覚を超えた、より大きな純朴さへと回帰していく内面が描かれる。それはマーラーの交響曲で言えば、第八番第二部の天使の合唱と、第九番第4楽章の終末部とが同時に奏でられる感覚である。

マーラーが1908年に第七交響曲を自ら初演したとき、その評判はさんざんだった。しかし、マーラーはおそらくそんなことは最初から見通していたはずだ。マーラーはこの交響曲が完成したとき、友人の音楽学者グイード・アドラーに“Septima mea finita est”というラテン語のメッセージを書き送ったという。「我が第七は完成せり」という意味である。マーラーは何かを突き抜け、何かにきっぱりとした形を与えたということだろう。

満50歳でマーラーは死去した。ぼく自身はその年齢を過ぎてしまった。当然のことであるが、死は近づきこそすれ、遠ざかりはしない。自分と百歳ちがいのマーラーの交響曲や歌曲を聴きながら、ぼくは内省的にならざるをえない。ぼくは何かを突き抜けたであろうか。何かに形を与えうるであろうか。破綻を破綻のままで提示できるだろうか。マーラーを聴き続けるのは、自分に対して問を発し続けることでもある。