2011年11月17日木曜日

「恋」と「愛」との違い


「恋」と「愛」とはどう違うのだろう。いろいろな見方があるだろうが、飯田史彦『愛の論理』(PHP文庫)では次のように「恋」と「愛」を区別している。

恋とは、相手が持つ所有物(容姿・性格・才能・富・仕事・家柄などの属性)に価値を感じて一時的に高揚する、『相手に受容されることや相手を支配することによって、相手と一体化したい』と願う感情である。」
愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。」

なかなか周到な定義のしかたである。「恋」が一時的に高揚する単なる〈感情〉であるのに対して、「愛」は決断・意志・能力に支えられた〈行為〉だと言うのだ。ぼくはかねがね、「恋は一瞬にして燃え上がる炎たりうるが、愛は共有した時間の長さである」などと、したり顔で酒呑み相手にまくし立てたりしたものだが、ぼくの言い方なぞ何の定義にもなっていない。

ただ〈行為〉としての「愛」にもウェイトを置きつつ、「恋」の〈感情〉も大切にしたいときだってある。一概に「恋」より「愛」の方が上等だなどとは断言したくない。一時的に高揚する「恋」の〈感情〉がやがて静かに落ち着いていき、なおかつ、相手の幸福を願い成長を支援する〈行為〉としての「愛」をより深く自覚するとき、そこに心のきずなが生まれるのだろう。

場合によっては、相手を支配することを懼れ、むしろ、自ら身を引き、相手を解放することによって成就される「愛」もある。成功ではない幸福。欲望を離れた希望。目標の定まらぬ目的。そうしたものを我が身に引き受ける人生であってもいいではないか。

2011年11月16日水曜日

『歎異抄』(金子大榮・校注)


 住まいの近くに「最賢寺」という浄土真宗大谷派の寺院がある。市の天然記念物にも指定されている銀杏の巨木が境内にあって、秋には黄金の彩りが見事だ。

 この寺は、金子大榮という真宗系仏教学者の生家である。戦前の一時期、金子大榮はおのれの信仰信念を貫いたため、大谷大学の教職を追われたことがある。その後、名誉回復を果たしたが、そうした芯のある思想家ぶりにぼくは長く傾倒してきた。

 高校のとき、倉田百三で親鸞を知ったぼくは、親鸞関係の本を読んだり、さっぱり理解できないまま『歎異抄』や『教行心証』をひもといたりしていた。ぼくが持っていたのはどちらも岩波文庫版で、いずれも金子大榮の校注によるものだった。

 授業に出たくないときは保健室のベッドに転がり込んで読書に励んでいた。最初はいろいろな文庫本をベッドに持ち込んでいたが、やがて『歎異抄』が定番になった。金子大榮の注釈は高校生にとっては不親切きわまりないものであったが、それが逆に自分の力で読み解こうという意欲を駆り立ててくれた気がする。意味が通じるまで何度も読み返した。

 この『歎異抄』の中に出てくる「ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮(こけ)をいだけるものか」という言葉は、ぼくのごまかしの生き方を鋭く射抜いていた。思春期にして出逢ったこの言葉に、ぼくはいまだ射抜かれ続けていると言ってもよい。

 この書を通じて、我が身がとかく「罪悪深重、煩悩熾盛」の凡夫であることを思い知らされたものだ。「金子大榮」という名前を目にするとき、今でもほろ苦い感覚がどことなく伴う。当地に引っ越してきて、その金子大榮の生家が住まいのすぐ近くにあったことは、大きな驚きであり喜びであった。

己れの心で花を狩る


棟方志功の版画に「華狩頌板画柵」という作品がある。この作品について、棟方は自著『板極道』(中公文庫)の中で次のような解説を行っている。

「けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、花だと、心で花を狩る。きれいな心の世界で美を射止めること、人間でも何でも同じでしょうが、心を射とめる仕事、そういうものを、いいなあと思い、弓を持たせない、鉄砲を持たせない、心で花を狩るという構図で仕事をしたのです」

うまいことを言ったものだ。同じようなことを述べた断章は『星の王子さま』の中にも出てくる。有名な次の一節だ。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ。」

だが、残念ながらサン・テグジュペリの言い方はネガティブだ。棟方の言葉はもっと前向きである。心で花を狩る。心で射とめられた花はきっとかけがえのない美しさを放つに違いない。言い換えれば、花はそのとき「心を射とめる仕事」を果たしえたのである。

誰にだって聞く「耳」はある。話す「口」もある。でも、「聞く耳をもたない」人もいる。「何ごとにも口をつぐむ」人もいる。おそらく肝腎なのは耳でも口でもないのだろう。大切なのは「心」。

だとするならば、結局は、自己を顕示するか、自己を隠蔽するかだけの問題となる。二つも三つも「自己」はない。一つの「自己」に二つも三つも「心」はない。

2011年11月15日火曜日

『直筆で読む「人間失格」』(太宰治)


『直筆で読む「人間失格」』(集英社新書ヴィジュアル版)は面白い。この「直筆で読む」シリーズは、最初に『直筆で読む「坊っちゃん」』が出版された。大学生だったとき、漱石の筆蹟や用字法の真似をしていた時期がある。したがって、『直筆で読む「坊っちゃん」』が廉価で発売されたときは欣喜雀躍した。税込1,260円であった。

 それに次ぐ『直筆で読む「人間失格」』は税込1,470円である。ページ数が多いこともあるが、組版や製本に工夫が見られる。『坊っちゃん』ではノドの印刷部分を読むのが大変だった。背の糊が強すぎる。固すぎる。そのため、無理をして開こうとすると本が背で割れてしまう。それに比べて、約1年後に上梓された『人間失格』は実に造本が良い。

「直筆で読む」の新書ヴィジュアル版シリーズはぜひ続けていってほしい。芥川龍之介、宮澤賢治、谷崎潤一郎、川端康成、などなど、「直筆」の写真版を作品単位で手許に置いておきたい作家はたくさんいる。

 近現代の文芸家は活字化されることを前提にして創作しているだろう。活字には活字の読み方がある。「坊っちゃん」にせよ「人間失格」にせよ、集中すれば半日で読める程度の規模だ。だが、直筆原稿となるとそうはいかない。手間やひまが掛かる。しかし、自分の好きな作家の好きな作品なら、手間の掛かる味読熟読も悪くない。量より質を求めたい。

 太宰治の直筆原稿(写真版)を見ていると、いろいろなことに気づかされる。文字が丁寧である。消去部分は完全に線を網状に細かくクロスさせて消している。挿入部分も明確に示されている。一貫して文字に乱れがない。句点・読点も実にわかりやすく記されている。太宰治という人間は、実に几帳面で破綻の少ない物書きであったことが手に取るようにわかる。

 だからこそ、太宰治はアナーキーな破滅型無頼派として、また、アイロニカルな放蕩的エピュキュリアンとして自己演技せざるをえなかったのではあるまいか。おそらく誰にでもそういう「狂人」としての心理傾向はあるはずだ。そうした人間の普遍性に対する一つの思索成果が、太宰治の「人間失格」だったのではなかろうか。

 若い頃、太宰治をずっと嫌悪していた。同族嫌悪であったかもしれない。特に「人間失格」という作品が嫌いだった。本当の「失格」を味わっている人間はこうは書かないと直感したからだ。その直感が当たっていたかどうか、いまだ不明である。

このヒゲ何をもたらすや


ぼくは髪もヒゲも伸び放題の野卑な風貌をしている。頭髪はいつも頭の後ろで束ねているが、その長さはもはやヘソの辺りまである。そんな姿で洗面所の鏡の前に立つと「ヒッピー」という言葉しか思いつかない。だが、ヒッピー風のファッションセンスもない。首から下はごく普通のおじさんスタイルだ。

頭髪は今も伸び続けている。しかし、面白いことにアゴヒゲというのは一定の長さまでしか伸びてくれない。放置しておけば、中国の仙人図のようにヌラヌラと何メートルでも伸びていくのかと思っていた。だが、個人によってリミット値があるようだ。ぼくの場合は、片手で握るのにちょうど良い長さのところで留まっている。

ズック靴やウォーキングシューズなど、かかとのところにつまみが付いている。紐が通せるようになっていることが多い。そのつまみやそこに通す紐のことをブートストラップと呼ぶ。ブートストラップをつまんで自分を持ち上げられるかという問がぼくは好きだ。同様に、自分のあごひげに掴まってぶら下がることができるかという問も楽しい。

ヒゲづらを始めた最初のころ、ある居酒屋の女将さんは「ヒゲの殿下みたい」と言ってくれた。三笠宮寛仁(ともひと)親王のことだ。殿下は自らがアルコール依存症であることをカミングアウトした。ある大学院の女子学生さんは「監督さんみたい」と言ってくれた。「監督」とはおそらく宮崎駿監督のことを指していたのだろう。

多くのひとは「山男みたい」と言った。「雪男」ではない。もしかすると本心は、「山賊みたい」と言いたかったのかもしれない。「海賊みたい」かもしれないし、「盗賊みたい」かもしれない。思えばぼくは「賊」であり「俗」である。「学校の先生のくせに……」とも言われた。口に出さなくてもそう思っている方々は多いだろう。

ぼくがヒゲを剃らなくなったのはただ面倒くさくなっただけだ。特に意味もなく、特段の理由もない。このヒゲづらにいちばん面白い反応を返してくれたのは、今は亡きオトンである。当時、オトンは孤独な入院を続けていた。ぼくは月に一度ほど岡山まで車を走らせてオトンを見舞った。

ヒゲづらになってから最初にオトンの病室を見舞ったとき、オトンは何やらゴソゴソと菓子箱を取り出してきた。おもむろにその箱を開けると、中には電気カミソリがしまってあった。電気カミソリをぼくの目の前にニュッと差し出しながらオトンはこう言った。

「おい。早う剃れ。」

オトンにとってはいかなるヒゲも単なる無精ヒゲでしかない。すべてのヒゲは剃り残しである。ぼくの場合は確かにそれに間違いないのだが、いきなり「早う剃れ」と言われるとやはりおかしかった。思わずぼくは笑った。オトンの前で笑ったのは久しぶりだった。ぼくは当分の間、このヒゲは剃らないだろう。

2011年11月14日月曜日

花田清輝『復興期の精神』


 花田清輝はおもしろい。まずは岩波文庫の『花田清輝評論集』はお薦めである。日本語の文章表現というものが、いかに多様な可能性を秘めているかをここまで端的に示してくれる書き手はそう多くない。少なくとも日本語によるアイロニーとパラドックスの卓越した文章表現者の一人が花田清輝である。

 講談社文芸文庫には『復興期の精神』が収録されている。このエッセイ集は、戦後まもない1946年(昭和21年)10月に我観社から刊行された。花田清輝の誕生日は1909年(明治42年)3月29日であるから、花田清輝37歳だ。

 ここに収められている連作エッセイは、太平洋戦争が開戦する1941年(昭和16年)から「ルネサンス的人間の研究」というシリーズ名で書き継がれていたものである。エッセイの一篇一篇は、韜晦趣味と衒学趣味とをあえてぎらつかせることによって、著者自身の主張をその背面に隠すという手法が随所に見られて、実に痛快である。

 花田清輝は我観社版『復興期の精神』の跋文を次のように書き起こしている。

「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一連のエッセイを書いた。良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された。いまとなっては、殉教者面ができないのが残念でたまらない。思うに、いささかたくみにレトリックを使いすぎたのである。一度、ソフォクレスについて訊問されたことがあったが、日本の警察官は、ギリシア悲劇については、たいして興味がないらしかった。」

 この何とも皮肉めいた書きぶり、逆説的な物言いこそが花田清輝の身上だ。花田自身が述べている通り、彼の文章は「レトリック」に充ちている。美辞麗句に見せかけるための「レトリック」ではない。虚妄を糊塗するための「レトリック」でもない。その「レトリック」を用いなければとうてい伝達できないような含意を発生させるための仕組みなのだ。

 素面のときに読んでも面白いのだが、ほろ酔い気分で読むと花田清輝の文章は実にいい。気持ちよくなる。ページをめくるごとに何度も唸らされる。ぼくは死ぬまでこんな文章は書けないなあと嘆息する。彼は1974年(昭和49年)9月23日に脳出血のために逝去した。満65歳であった。

土星と金星とおじさんと


 車を運転して岡山に向かう途中の話。神戸ジャンクションから山陽道に分岐し、三木というサービスエリアで休憩した。暁ごろのことだ。タバコを一服していると、一人のおじさんに声を掛けられた。

「土星が見えてるで。見まへんか。」

 声の主は、二基連結のでっかい天体望遠鏡を空に向けて構えていた。ぼくは誘われるままに接眼レンズに目を寄せた。ややぼんやりとしているが、確かに輪っかの付いた星が中央にはっきり見えた。ヴィヴィアン・ウェストウッドのロゴマークさながらの神秘的味わいを感じた。

「こっちの方は金星や。どや、ちょうど半月みたいやろ。」

 おじさんにそう言われて、もう一方の望遠鏡をのぞき込む。明けの明星。肉眼でもひときわ明るく輝くのがはっきり見える金星は、本当にお月様ぐらいの大きさに拡大されて見えていた。半分ほど欠けていて、半月そのもの。半身がヴェールで覆われたヴィーナスとでも呼ぶべきだろう。

 おじさんは、天気のいい日の未明には、このサービスエリアで天体望遠鏡を構えるらしい。星をいろんな人に見てもらうのが趣味なのだそうだ。通りがかる一人ひとりに「土星、見まへんか?」と声を掛ける。「うわー、すごい!」と言ってもらえるとホントにうれしそうな表情をして微笑んでいる。

 お話をいろいろ伺うと、狙った星にばっちり方向を定めて、ピントが合った状態に保つのはなかなか大変なことらしい。

「まあ、毎日が練習みたいなもんや。」

 なかなか凄みのある決めぜりふだ。隠れた達人である。曙光が射し始める少し前の忘れられない出来事だった。土星も金星もいいが、ぼくは再びあのおじさんに会いたい。