「恋」と「愛」とはどう違うのだろう。いろいろな見方があるだろうが、飯田史彦『愛の論理』(PHP文庫)では次のように「恋」と「愛」を区別している。
「恋とは、相手が持つ所有物(容姿・性格・才能・富・仕事・家柄などの属性)に価値を感じて一時的に高揚する、『相手に受容されることや相手を支配することによって、相手と一体化したい』と願う感情である。」
「愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。」
なかなか周到な定義のしかたである。「恋」が一時的に高揚する単なる〈感情〉であるのに対して、「愛」は決断・意志・能力に支えられた〈行為〉だと言うのだ。ぼくはかねがね、「恋は一瞬にして燃え上がる炎たりうるが、愛は共有した時間の長さである」などと、したり顔で酒呑み相手にまくし立てたりしたものだが、ぼくの言い方なぞ何の定義にもなっていない。
ただ〈行為〉としての「愛」にもウェイトを置きつつ、「恋」の〈感情〉も大切にしたいときだってある。一概に「恋」より「愛」の方が上等だなどとは断言したくない。一時的に高揚する「恋」の〈感情〉がやがて静かに落ち着いていき、なおかつ、相手の幸福を願い成長を支援する〈行為〉としての「愛」をより深く自覚するとき、そこに心のきずなが生まれるのだろう。
場合によっては、相手を支配することを懼れ、むしろ、自ら身を引き、相手を解放することによって成就される「愛」もある。成功ではない幸福。欲望を離れた希望。目標の定まらぬ目的。そうしたものを我が身に引き受ける人生であってもいいではないか。