2011年10月31日月曜日

フィッシュ『このクラスにテキストはありますか』


 ここ十年ぐらい、ぼくのクラスではテキストを使わなかった。いいテキストがないわけではない。よくまとまったテキストはある。穏健な内容のテキストもある。たまには手前味噌に終始するテキストもある。それぞれ良い点もあれば悪い点もある。概説書というのはそういうものだろう。ただ、概説書なるものの欠点は、学生当人が考える前に「答」がそこに書かれてしまっていることだ。

十年の間、せっせと自前のプリントを用意したものだ。パワポのスライド上映をしながらレクチャーを進めることもあった。しかし、やがてどちらもしなくなった。プリントやスライドが事前に準備されていると、ぼく自身もそのあらかじめ定まった流れで話を進めるしかなくなるからだ。もう少し自由にクラスの中で語り、つぶやきたい気がした。

プリントやスライドに依存すると、その結果として、どうしても単調な淀みがクラスに漂い、学生たちは次々に眠っていってしまう。受講学生をこぞって眠らせる上では、文字ばかりのスライドがもっとも有効なようである。逆に、展開や答が事前に提示されていない場合、予想もしなかった方向に受講学生がぼくを導いてくれる。そこに緊張感が走る。

スタンリー・フィッシュの名著に“Is There a Text in This Class?: The Authority of Interpretive Communities”がある。みすず書房から1992年に、小林昌夫氏の訳で『このクラスにテキストはありますか 解釈共同体の権威』という邦訳が出されている。しかし、残念なことにこの邦訳書は原著の全訳でなかった。「解釈共同体」というアイデアで牽引されていくフィッシュの読者論批評は見事である。本書は語用論的思考のためのよきガイド役でもある。

ぼくのクラスには「テキスト」はない。しかし、「テクスト」はある。同じものが大量にコピーされた「テキスト」は学生の机の上にはない。しかし、ぼくが語り、学生がそれに応じることで編み上げられていく「テクスト」は心的に実在する。そのうちのある部分は、黒板に断片的表現としてメモ書きされていく。学生はその黒板のメモ書きに基づいて、自分自身のノートの上に、クラスの中にそのとき満ちている「テクスト」への手掛かりを記しおく。

「先生のクラスにテキストはありますか?」――そう言って、誰か学生が尋ねに来てくれるとうれしいのにな、と思う。前述したフィッシュの名著も、学生のそうしたひと言から語り起こされている。つまり、フィッシュは、十分に学生の些細な呟きに耳を傾けていた。ぼくもまたそうでありたい。つぶやきや語りかけに充ちた時間を過ごしたい。

破綻を破綻のままで提示する


 グスタフ・マーラーは1860年7月7日、オーストリア領ボヘミアの小さな村に生まれた。息子の音楽才能を儲けの種としか思わない放蕩者の父と、12人の子を出産した母マリーの間に産まれた2番目の子どもがマーラーだった。彼はその父を憎み、家族を捨てて、15歳のときウィーン音楽院に進む。

 彼は「オーストリアにおけるボヘミア人」、「ドイツにおけるオーストリア人」、「世界におけるユダヤ人」として、根無し草的、ディアスポラ的な心性を終生抱き続けたと言われる。宗教についても、37歳のとき、ウィーン宮廷歌劇場指揮者に任命されるに先駆けて、ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。

 マーラーの生誕日7月7日に、彼の第七番交響曲を聴くことは、ぼくにとっては一つの重要な儀式である。マーラーは1911年5月18日に死去した。よく知られている通り、最期の言葉は「モーツァルト……」であった。満50歳での死。着手していた第十番交響曲は未完のまま残された。代表作とされる『大地の歌』と交響曲第九番は死後に初演された。

 マーラーは数字付き交響曲を9曲完成させたが、そのなかでも第七番交響曲は「失敗作」と評された歴史をもつ。「脈絡のなさ」と「様式の分裂」が際だつ曲で、初演のときは「ほとんどの聴衆から理解されなかった」という。しかし、これまた多くのマーラー好きが指摘する通り、ぼくはこの第七交響曲がもっともマーラーらしい曲だと思う。初めて交響曲のスコアというものを買ったのもこの曲だった。

 サントリーのテレビCFで日本でもブームになった歌曲交響曲『大地の歌』の完成が1908年。この『大地の歌』の完成後、その年9月にプラハで第七交響曲は初演された。この曲は実はすでに1905年夏には完成していた。マーラーのメモによれば完成日は1905年8月15日。マーラー45歳であった。

 交響曲第七番は、通称「夜の歌(Lied der Nacht)」と呼ばれる。ただし、この標題はマーラー自身によるものではない。5楽章構成になっていて、第2楽章(アレグロ・モデラート)と第4楽章(アンダンテ・アモローソ)には「夜曲(Nachtmusik)」という標題が付けられている。1905年初夏、マーラーがまず仕上げたのはこの第2楽章と第4楽章である。しかし、マーラーは二つの「夜曲」をいともたやすく仕上げたあと、突然スランプに陥ってしまった。

 第2楽章は葬送行進曲にしか聞こえない。第4楽章は明らかに通俗的な盛り場の音楽だ。この二つを書いて、マーラーは何も書けなくなった。しかし、そのスランプのあと、彼は夏の終わりには交響曲全体を仕上げる。ひと夏を無駄に過ごすかと思っていたとき、突如彼にひらめきが生じた。そうして、一気に交響曲第七番は完成する。きっとその間に45歳のマーラーの精神には何かが起きたのだ。

 第1楽章(アレグロ・リゾルート;マ・ノン・トロッポ)。二つの「夜曲」に挟まれた第3楽章(スケルツォ;影のように;流れるように、しかし速くはなく)。このスケルツォは、「影のように」という曲想指定でも分かる通り、何とも奇怪でおどろおどろしい。「あえて破綻させたぞ!」と言わんばかりである。そして、第5楽章(ロンド・フィナーレ;アレグロ・オルディナリオ)。

 終楽章(第5楽章=ロンド・フィナーレ)は、けたたましいティンパニの乱打と、ホルン・木管によるファンファーレから突如始まる。ワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』前奏曲さながらの祝祭的マーチだ。ハ長調による主要主題は何度もリフレーンするが、そこに雑多な音材で構成された副主題が執拗なまでに絡まる。エネルギーだけは終始拡散され続ける。サイモン・ラトルはこの曲のフィナーレを「最も悲劇的なハ長調の音楽」と呼んでいる。

 マーラーはその悲劇的狂騒によって何を突き抜けたのだろう。破綻を破綻のままで提示することで、その破綻をどこに何に結びつけようとしたのだろう。おそらくマーラーは二つの「夜曲」で自分自身の孤独感を凝視したあと、こう言いたかったのではあるまいか。――誤解しないでくれ。ぼくは何かを恐れているんじゃない。むしろ、その逆だ。何となく来るべきものが来たという安堵感の方が強いんだ、と。

 今でも、この曲の「破綻ぶり」をあげつらう評論家もいる。しかし、ぼくには、破綻が破綻のままで提示されていることにとても大きな魅力を感じる。自分自身もそうありたい。そうした決意を己れの中に確認したのは、やはりぼくも45歳を迎える頃であった。45歳という年齢は精神的にも肉体的にも一つの曲がり角である。その年齢のとき、マーラーは二つの「夜曲」をいともたやすく仕上げたあと、大きな屈折の中に陥ったのだ。

 ぼくも45歳の頃には精神が崩れかけていた。同じ年齢の自分に起きていたことを重ねながら、ぼくはマーラーのことを考える。マーラーは、実は自分の父を憎んでいたということを何歳のときに誰れに告白できたのだろう。彼は、家族の中でのどうしようもない孤独感を、どうやってごまかしていたのだろう。第七交響曲を仕上げる途上のマーラーのことを思うたび、この曲が自分のテーマ曲のように思えてならないことがある。

2011年10月29日土曜日

山川出版社『世界史(B)用語集』


「国民新党」という政党がある。その英訳は“People's New Party”だ。スペインやオーストリアの「国民党」も英語で“People's Party”と訳される。しかし、通常‘people’の訳語としては「人民」の方が流布している。中華人民共和国・北朝鮮民主主義人民共和国などの「人民共和国」の部分は“People's Republic”である。それに対して、一般に「国民党」と日本語に訳される各国の政党名の英訳として多いのは“National Party”もしくは“Nationalist Party”だ。

 戦前ドイツを席巻した‘Nazi’は、NAtionalsoZIalist(英語に直せば“National Socialist”)の略で、正式には「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」であった。括弧書きで記したように、「国家社会主義ドイツ労働者党」と訳されることもあり、「国民社会主義ドイツ労働者党」と訳されることもある。例えば、高校生向けの『改訂版 世界史(B)用語集』(山川出版社)でもその両方を併記している。

 日本語において、「国家」と「国民」という両語の落差はかなり大きい。両語を自由に入れ替えるとかなり怪しげな結果を生む。「国家公安委員会」を「国民公安委員会」にしたり、「国民生活センター」を「国家生活センター」にしたりすると、漢字一字の違いだがニュアンスは大きく異なる。美空ひばりや三波春夫を「国民的歌手」と呼ぶことに異存はないが、これが「国家的歌手」と呼ばれたら大きな違和感を感じる。

「国民的」が冠せられる語としては、「国民的美少女」や「国民的アイドル」などもある。「国民的美少女」というのは、もとは後藤久美子がデビューするときのキャッチフレーズだったが、その後、「全日本国民的美少女コンテスト」なるものが開催されるようになった。こうなると「国民的」という冠辞はかなり意味的に摩耗しているのがわかる。「国民全体」というよりも、「国民の一部から熱狂的に愛好されている」というニュアンスが強くなっている。

 ぼくたちは「国民」という言葉から、「ピープル」(人民)や「シティズン」(市民)に近い概念を連想しがちかもしれない。しかし、政府が「国民的な議論」というときの「国民的」はかなりニュアンスが異なっていると考えた方がよい。この自覚を失うと、「市民」ではなく「臣民」の座に己れを置いてしまうことになる。政府が「国民的な議論」というときの真の意味合いは、「大衆的な議論」という意味では決してない。むしろ、「国家としての議論」なのである。

ディスタンスからローカルへ


「BCL」という用語は、1970年代に一気に一般化・大衆化・商業化した。そうした用語は逆にマニアから忌避されるものだ。ぼくも海外放送(特にアジア近隣諸国の放送)を受信することに専念すればするほど、「BCL」という用語にちょっとした隔絶感を覚えるようになっていった。遠距離(Distance)の略語である「DX」を用いた「DXing」「DX'er」という用語の方を好んで用いるようになった。そこには少年らしい思い上がりもある。

三菱電機は、他社にやや遅れて「ジーガム」という名称でBCLラジオを発売した。その発売を機に日本短波放送(NSB:現・ラジオNIKKEI)で『ハロージーガム』というBCL番組が始まった。1974年のことである。MCは肝付兼太氏だった。中学二年のとき、その番組のディレクターさんから電話が掛かってきた。取材の申し込みである。

当時、『ラジオの製作』という雑誌に「みっしぇるの会」というBCLグループを作ったという投稿をした。それが目にとまったらしい。確かに「みっしぇるの会」のゴムスタンプは出来上がっていた。郵便振替口座も開設していた。しかしながら、まだグループとしての実体はなかった。ようやく「入会問い合わせ」のハガキが二~三通届いている程度だった。

ところが、取材までの日程はない。「みっしぇるの会」は実体のないまま取材を受ける。いっそ断ればよかったのだろうが、何事についても依頼ごとが拒めないのがぼくの弱さである。急遽、当時のラジオ仲間だったイタちゃんとマキちゃんに協力を要請した。NSBのディレクターさんが我が家に到着したのは日暮れ時だった。それからデンスケによる録音取材が始まった。

丸刈りの中学二年生三人組にマイクが向けられた。何やら怪しいやりとりが続く。あとで放送を聴いたときは赤面ものだった。ぼくはやたら媚びを売り、イタちゃんは個性的にアンテナについて語り、マキちゃんはボケをかましていた。今も、オンエアーの録音は残っているが、なかなか聴き返す気にはならない。

中学三年生の三学期。ぼくは詫間電波高専へ進学するという夢もあきらめ、近くの普通科高校を受験する。無事合格。高校入学後も「DXing」とその関連活動はずっと続けた。しかし、やがてそうしたアクティビティーから自ずと遠ざかるようになっていった。つまり、いわゆる「BCL」の世界から徐々に離れていった。

その理由の一つは、高校生にして酒を覚えてしまったことである。「DXing」の趣味は、夕方から深夜、さらに早朝にかけてが勝負だ。その時間帯に悪友たちとノミニュケーションに精を出すようになってしまった以上、もはや(雑音を避けるため)蛍光灯をすべて消して静かに「シャック」(受信装置の置かれたデスク)の前に座るストイックさには戻れなかったのだ。呑めや歌えやの毎日はぼくを「ディスタンス」から「ローカル」へと向かわせた。

もう一つは、ある女の子に恋情を抱いてしまったことだ。多少は「いい格好」をするために学業の方にも精を出すようになった。それまでは高校の予習・復習・試験勉強等々、そんな時間はすべて犠牲にしてシャックの前に夜通し座っていた。だが、恋愛の力は人を変える。次第に受信機の電源をONにする回数が減っていった。代わりに、『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』をNSBで聴くようになっていた。趣味も民俗学方面へと移行していく。

折りしも、アジア中波局の周波数刻みが「10kHz」から「9kHz」へと変更となる。ぼくの頭の中にあった周波数表が現実と合致しなくなった。「ああ、ここまでだな……」という感じだった。それが、時期的には「BCLブーム」の衰退とシンクロしていた。「シャックルーム」だったはずのぼくの部屋は、平日は勉強部屋となり、週末は宴会場となった。だが、当分の間は、ぼくの部屋を訪れた高校の悪友たちは、わがシャックの見事さに圧倒されていた。「おまえはスパイか……?」と。

2011年10月28日金曜日

『深代淳郎の天声人語』


 両親は文字に不自由だった。それで困ったことはそれほどない。しかし、両親に新聞を読むという習慣がなかったことは、やがてぼくを口惜しい思いにさせた。中学生になったぼくは新聞が恋しかったのだ。我が家にも新聞がほしい、朝一番に新聞を見たい。そう思った。

 中学生のときは学校の図書室にある新聞で用を済ませた。とはいえ、最初はテレビ欄をチェックする程度だった。そのうちぼくを惹きつけたのが、『朝日新聞』のコラム「天声人語」だ。これはあとで知るのだが、当時の執筆者が深代淳郎であった。

「『朝日新聞』をとってほしい」と親に懇願したのは、高校入学前だったか、入学後だったか定かではない。ともかく、高校生になってからまもなく、我が家の郵便受けにも毎朝、新聞が投函されるようになった。最初の数日は欣喜雀躍した。自分の家で「天声人語」が読めることがこよなくうれしかった。

 深代淳郎の「天声人語」はその後『深代淳郎の天声人語』という単行本として刊行された。本として組版されたものと、一行の文字数に制限がある新聞紙面とでは、同じ内容であっても印象が異なった。深代淳郎は昭和48年2月から昭和50年11月まで「天声人語」を担当したそうだ。深代は昭和50年12月に息を引き取る。急性骨髄性白血病。46歳であった。

 我が家に『朝日新聞』が配達されるようになった頃には、すでに「天声人語」の執筆者は深代淳郎ではなかった。それでも「天声人語」が楽しみだった。その後、自分が魅せられたのが実は深代淳郎の文章であるということを知ってからは、前述の『深代淳郎の天声人語』はもちろん、『続・深代惇郎の天声人語』、『深代惇郎エッセイ集』、『深代惇郎の青春日記』を購入し、二読三読したものである。

「『朝日新聞』以外は購読しない」とヘタに言うと、すぐに思想偏重だと言い立てる輩がいる。だが、ぼくにはぼくなりの『朝日新聞』へのこだわりがある。それは中学生時代に読んだ深代淳郎の「天声人語」に溯る。ちょっとした文章を書いていて、「あ、これは深代淳郎の文体に影響を受けている」と感じることが今でもある。

ページの向こうに笑顔が見える


「BCLブーム」が全盛期を迎えていた頃、中国は文化大革命のまっただなかにあった。中国に関しては国内の放送事情はほとんど公開されてなかった。当時、その中国をはじめとするアジア近隣諸国のラジオ放送について、極めて精緻で高度なレポート記事を『電波技術』誌にほぼ毎号執筆していたのが長瀬博之氏である。

 その長瀬氏が、まだ950kHzだったTBSラジオの裏側に夕方になると混信している中国語局がどこの放送局か確認できないというメモを『電技』誌に投稿していた。長瀬氏は東京在住だった。確認は西日本の方が有利だ。ぼくは、それが「黒竜江人民広播電台」だと確認して、早速受信レポートを『電技』に投稿した。中学一年のときだった。

 長瀬氏の強い影響を受けて、ぼくもアジア近隣諸国の中波帯にターゲットを絞った。しかし、朝鮮半島に関しては山下透氏というツワモノがいた。のちに「アジア放送研究会」の理事長として、放送傍受による北朝鮮情勢の分析に携わり、NHK国際放送のアナウンサーとしても活躍した方である。ぼくは朝鮮語・韓国語圏は諦めて、もっぱら中国語や広東語のラジオ放送受信に専念した。

 台湾の「高尾漁業広播」の定時放送があることを、ラジオ・スウェーデンの“DX'ers Club”に報告したことがある。国際的に権威ある専門番組だった。報告書の原稿は辞書を引き引き英語で書いた。そのレポートが番組の中で紹介されたときの喜びは今も忘れられない。‘DX'ers’の‘DX’とは‘Distance’の略号であり、遠距離局を表す。ぼくはすでに‘BCL’という用語を使わなくなっていた。自分はすでに‘DX'ers’の一人だという自覚が芽生えていた。

 大学卒業を控えた長瀬博之氏は、中学生のぼくと会うために岡山駅で途中下車してくださった。当時のマスカットプラザにあった喫茶店で話をした。最初は興奮してしどろもどろだったのを今でもよく覚えている。卒業後、長瀬氏は松下電器に就職する。ポータブルBCLラジオの傑作、かの「ナショナル クーガー2200」の製品化には、長瀬氏も学生時代から関与していたそうだ。

 また、講談社からは、『短波に強くなる―海外放送受信学入門 BCL/DXerへのすすめ』という著書を益本仁雄氏との共著で上梓している(1976年)。今でもこのブルーバックスはぼくの宝物の一つである。味気ないといえば味気ない内容で、関心のない人にはこの本の何が面白いのかわからないだろう。それはそれでいい。しかし、ぼくにとっては、この本のページの裏側に長瀬博之氏の笑顔が透けて見える。黄ばんだページの向こうにあの頃の宝石がある。

2011年10月27日木曜日

柳美里『自殺』


柳美里(ユウ・ミリ)の「レッスン1993 自殺をプログラムする」(文春文庫『自殺』所収)は、一つの「自殺のすすめ」である。1993年7月19日に神奈川県立川崎北高等学校で行われた、自殺をテーマにした「レッスン」の内容がまとめられている。

柳美里自身、14歳のときに自殺未遂の経験をもつ。そういう経験の中から、ひとは「絶望したときに死ぬとは限らない」ということや、ひとは「自我を守るために死を選ぶ」ケースもあるということが語られる。いくつもの自殺の具体的事例の中から、「自殺」という行為がもっている積極的な意味を探っていこうとする。

このレッスンの終盤、柳美里は次のように改めて語り起こす。「最後になりますが、私はここで逆説的に自殺のすすめを皆さんにしたいと思います」。この部分には「死がなければ生もない」という見出しが付けられている。

「私の自殺のすすめというのは、さっきいったように、自分の人生の中に自殺をプログラムすべきだということです。『それでは、まずあなたが死んでみたら』という声が聞こえてきそうだけれども、私は自分の中に自殺をプログラムしていて、書きたいことを書いたら、自殺をするつもりでいます。」

このように柳美里は、「書きたいことを書いたら」という限定付きではあるが、「自殺」を一つのゴールであると意識している。

「問題は死ぬことよりも、死んだように生きることだと思います。(中略)死がなければ生もないんです。永遠に生きられるとしたら、自殺を望むひとというのはものすごく増えるのではないかなと思います。」

確かにそうかもしれない。「死んだように生きる」時間がこの先ずっと続くと予見してしまったとき、ひとは強い絶望感を抱くことだろう。柳美里は、「人生の中に自殺をプログラムする」ことは「生の活性化」になると主張する。そのためには、「生の中に死が潜んでいる」ということに意識を向けることが大事だと強調する。

希死念慮というのは、「心の弱さ」かもしれないし、また、「生の活性化」を常に求めるしたたかさなのかもしれない。さまざまな若者と付き合っていて、ある程度親しくなると、ぼくは「死にたいと思ったことってある?」と尋ねる。程度の差こそあれ、ほとんどの若者は自死願望や自殺衝動を心に抱いたことがあると答える。希死念慮や自殺願望は、何も特別なことではない。

みんな「BCL」だった日々


ぼくが小学校高学年から中学生の頃は、ときまさに「BCLブーム」と呼ばれた時代である。短波の国際放送とか中波の遠距離国内局とかを聴いて、その「受信報告書」を送り、「ベリカード」(QSLカード)と呼ばれる証明書を集めるのが大ブームになった。今もぼくの研究室にはそのころ必死に集めたベリカードのファイルがある。ほとんどは単なる絵葉書なのだが、一局一局、苦労して受信した成果なので今でも捨てることができない。

ソニー、松下、東芝、三洋、シャープ、ビクター、三菱、日立と、各家電メーカーが「BCLラジオ」の性能とデザインでしのぎを削った。ちなみにブームの火付け役となったソニーの「スカイセンサー ICF-5500」の発売が1972年(翌年にICF-5800発売)。ナショナルの名機「クーガー RF-2200」の発売が1976年。ぼくはこの年にトリオの「R-300」を入手。ポータブルではなく据え置き型だ。トリオは、往年の真空管受信機の逸品「9R-59D(S)」の製造メーカーだったので信頼感があった。

当時の自室は「勉強部屋」ではなく、完全に「シャックルーム」だった。受信機や周辺機器、さらに関連道具や関連資料を配したコーナーを無線屋用語で「シャック」と呼ぶ。やや高台に建つ木造家屋の二階であったので、電波はどんどん飛び込んでくる。しかし、それだけでは飽き足らず、じゃんじゃんアンテナを作った。窓の外にはロングワイヤー式、シングルダイポール式、ダブルダイポール式のケーブルと碍子がいつも風になびく。室内には壁面をめいっぱいに使ったループ式。アンテナセレクターでそれらを切り替える。

今はもうダメだが、中学生のころはなかなかの電子エンジニアであった。真空管でも回路が組めたし、当時全盛だったトランジスタやFETの回路も当然わかる。かつ、まだ出始めだったICでも論理回路を作って、おかげで論理演算の要領をこのときマスターした。半導体の規格表も毎年買った。わがシャックは自作のさまざまな高周波回路であふれていた。アンテナ用のカップラー(同調器)、電波強度増幅器(RFアンプ)、電波強度弱衰器(アッテネーター)、デジタル周波数カウンター、その他、自作の測定機器等々。

テスター片手にはんだごてを握らせたらちょっとした名人だった。中学校の「技術」の時間、三年のときは中波ラジオのキットを男子全員が作った。技術の担当教員は、木工と金工はすごい技術と経験の持ち主だったが、電気はからっきしダメ。工業高校の電子科に進学することになる友人とぼくの二人に向かって「お前らにすべて任せる」と宣言した。おかげでぼくたち二人の放課後は、他の男子たちが中途半端に作りかけたラジオを「修理」する業務に追われた。

2011年10月26日水曜日

大槻文彦『言海』


「はぐくむ」という言葉がある。「教育」の「育」は「はぐくむ」と読みなす。嫌いな言葉ではない。親鳥が卵やひなを羽毛で温かく大切にくるんで、その成長を見守る。「はぐくむ」という言葉には、そうした優しさや温かさがあふれている気がする。

 一方、「そだつ」「そだてる」という言葉は、どうやら「巣立つ」が語源のようだ。しかし、鎌倉時代の僧である経尊の著した古辞書『名語記』を見ると、

「人のこも鳥獣のこも成長するをば、そだつといへる、そ、如何。そは、そその反、そろそろとおひたつ也。又、すだつをそだつといひなせる歟」

と記されており、詰まるところ、「そだつ」とは「そろそろとおひたつ」ことだと記されている。『名語記』はこの例でもわかるように、かなり独断に満ちた語源説明が多く、その分楽しみながら読むことができる。思えば、ぼく自身も確かに、「そろそろ」と生い立ってきたように思う。

 これに対して、「教育」の「教」の方、つまり、「教える」の語源については、定説と言えるものはないようだ。ただ、富山や島原に「おさえる」という方言語形が見られるところから、「おさえる」と同根だという説が有力かもしれない。つまり、悪いところをおさえたり、また、肝腎なところをおさえたりして、未熟な者を指導するという意味になる。

 ところが、大槻文彦の『言海』には「おしむ」と同根だと記されている。つまり、「教える」という行為は、相手をいとおしみ、その可能性の花咲かぬを惜しむ思いから起こるということになる。居並ぶ学生を前にして何かを教えている気にはなっていても、そのとき、ぼくは本当に学生一人ひとりの命の輝きを惜しんでいるだろうか。相当懐疑的にならざるをえない。

『書経』説命・下には、「惟みるに、おしふるは学びの半ば」という言葉がある。「教える」ということから、確かに大切なものを教える側も学んでいると思う。「教育」の「教」は「おしむこと」、「育」は「そろそろ生い立つ」こと。こういう読み替えの中に、もしかすると大切なヒントが隠されているのかもしれない。

夢と消えた詫間電波高専


 中学三年生のとき、瀬戸内海を渡った香川県にある詫間電波高専に進学したいと願っていた。建設予定の瀬戸大橋が「夢の架け橋」と呼ばれていた時代だ。第一の理由はわが心の中でふつふつと煮えたぎる「電波熱」であった。しかし、いろいろゴタゴタ続きの家を出て寮生活をしたいという考えもあった。継母の連れ子(すなわちぼくの義理の兄姉)や継母の親族と、人間不信甚だしいオトンとの間では揉めごとが絶えなかった。

 中学三年生。日曜日になるとアンテナを立て替える日々だった。田舎だったから、何でもやりたい放題である。岡山県南部は冬でも晴天続きだ。寒風の中、二階建ての家の屋根に敢然と登って、得意の自作真空管式同調測定装置(ディップメーター)を駆使しながら、ワイヤーの方向と長さを徐々に変えていくときの爽快感。うまく狙った方向と周波数にアンテナがぴたっとチューニングできたときの満足感は、実際にやったことのある人間にしかきっとわかってもらえないだろう。

 その頃、ぼくには片想いの女の子がいたが、「ワシはオナゴよりラジオやアンテナが好きじゃけ。」と友人たちにうそぶいていた頃だ。ぼくとしては進学先は一つしかないと思っていた。それが当時、仙台・熊本と並んで日本に三つしかなかった高周波専門の高等専門学校、詫間電波高専である。略称「電波高」、単に「電波」とも呼ばれていた。ぼくは何も悩むことなく、中学校の進学希望調査票に「詫間電波高専」と書いた。

 ところがである。ラジオ大阪で放送されたぼくの下品なラジオドラマを聴いてくれた学年主任は、学級担任だった英語教員と結託して、寄ってたかってぼくの野望に異を唱えた。もともと自分自身の生き方に自信のないぼくはその策謀にまんまとひっかかり、普通科高校進学に志望先を書き換えさせられた。高校入試の勉強は何もしなかった。入学試験の前日、ぼくは高周波トランジスタ(FET)を使った超短波コンバーター回路を夜遅くまでかけて組み上げた。

 結局、ぼくは普通科高校に進学する。中学三年のとき、己れの我を通して詫間電波高専に進学していたら、当然、いまのようなぼくはない。どちらがよかったのだろうと思うことがある。高校進学後も高周波趣味は続いた。「日本BCL連盟」という全国組織が設立されたのが高校一年のときで、その機関誌『月刊短波』の創刊準備号に原稿を書いたのが、ぼくにとっては初めての〈依頼原稿〉だった。連盟の岡山支部長という肩書きまで頂戴する。日曜日には「中波用ループアンテナ作り講習会」などを岡山市内で主催していた。当然、高校の勉強はそっちのけだった。

2011年10月25日火曜日

ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』


 リラダン(Auguste Villiers de l'Isle Adam)は、19世紀フランスの文芸家である。彼は詩人のボードレールや音楽家のワーグナーとの親交で知られる。もとはフランスでも数本の指に入る名門貴族の出身だが、フランス革命で没落した。

 早くから文芸創作に目覚め、いくつもの作品を世に問うが支持は得られない。しかし、時勢におもねることを嫌うリラダンは、ますます「孤高」と「理想」の枠の中に自分の作品を押し込んでいく。世間からの無視は続く。当然、彼の生活は悪化する。

 だが、それでもリラダンは、死後においてしか成就しない永遠の愛と、それに向けた現実超克の姿勢を、SF的な神秘性の中に書き綴っていく。1889年8月19日、リラダンは極貧の暮らしの中で落命する。パリの貧民救済病院の病床であった。親友のマラルメが彼の不運な死を看取ったという。

 リラダンの短編集『至上の愛(L'Amour Supreme)』『奇談集(Histoires Insolites)』『新残酷物語(Nouveaux Contes Cruels)』などを読んだのは二十歳の頃だった。思うに、二十歳の頃は貪るように何でも読んだ。何でも読めた、ということか。

 リラダンは当然、東京創元社が刊行した『ヴィリエ・ド・リラダン全集』全5巻で読んだ。齋藤磯雄氏による個人訳である。これは恐るべき偉業である。全集を購入するだけの財力はなかったので図書館を利用した。

『未来のイヴ(L'Eve Future)』や『トリビュラ・ボノメ(Tribulat Bonhomet)』は渡辺一夫の訳でも読むことができる。これは『渡辺一夫著作集』の第7巻に所収されている。このうち、1886年に発表された『未来のイヴ』はギリシア神話のピグマリオン伝説に基づいている。「アンドロイド」という言葉が初出する作品としても知られる。

 不思議なことに、ぼくはリラダンの作品を読んでいた二十歳のころ、ディアギレフ(Sergej Pavlovich Dyagilev:1929年8月19日客死)のことも知り、北一輝(1937年8月19日刑死)のことも知った。ほぼ何のつながりもないこの3人が同じ日(しかもぼくの誕生日8月19日)に生命を落としたと知ったのは、かなり後になってからのことである。

 死去した年齢は、リラダン、満52歳。北一輝、満54歳。ディアギレフ、満57歳。さて、ぼくはどのあたりが人生の限度だろう。

ラジオ少年まっしぐら


ぼくは小学校高学年からいわゆる「ラジオ少年」であった。コカコーラの懸賞でトランジスタラジオが二台か三台か当選した。ビスを外して、基板を取り出し、いろんなところにドライバーの先端を当てると、いろんな変化があった。特に高周波トランスのあたりに磁石を近づけるとハウリング現象が起きて、ちょっとしたテルミンのような遊びができた。

家にあった時計付きのトランジスタラジオも分解してみた。コアフェラメントのバーアンテナの部分に手を近づけると感度がアップすることを発見。アンテナのリード線と基板の接合部に銅線をつないだ。立派なアンテナになった。ただ長すぎると過変調を起こす。いろいろと試行錯誤したものだ。

小学六年の時、学研の『科学』の付録としてエナメル線をぐるぐる巻いて拵えるゲルマラジオの製作キットが付いてきた。田舎だったものだから放送局の電波塔から遠い。長大なアンテナをつながないとうまく聞こえなかった。そこでぼくはともかく長いアンテナ作りに挑戦する。いわゆるロングワイヤー式である。

ぼくが中学生であったころはラジオがいちばん元気な時代である。学校の授業時間はほとんどリクエストカードを書くのに費やされた。さまざまな新しい手法を使った。文章も練りに練り、イラスト画像にも徹底的に凝った。懸賞ハガキもたくさん出し、めぼしい賞品はだいたいゲットした。ラジオの公開放送があると耳にすれば、必ず押し掛けていた。その場で自分のリクエストカードが読まれるというのが最高の栄誉であった。

自作のラジオドラマも作っていた。シナリオ書いて、効果音も自分で録音してきて、自分の声のピッチを変えながら一人で何役でもやった。かなり高い確率でそのラジオドラマは番組でオンエアーしてもらえた。たまたま中学の学年主任がそれを聴いていた。翌日、それを告げられたときは焦ったものだ。中学校教員には聞かせられないような相当下品な作品だった。

萩本欽一とパジャマ党がやっていたニッポン放送の『欽ドン』(のちにテレビ番組となるが、もとはラジオ番組であった)でも投稿ハガキが読まれた。これは名誉中の名誉だった。ぼくが書いたのは「最後のひとこと」コーナー。「Aの133、以来の恐怖が今年また」という戯れ句である。わからないひとにはわからない。初期からの欽ドンファンにのみ通じるギャグだ。欽ちゃんは言う。「なにこれ~。ひどいじゃないの。ボツ~!」。ぼくはめでたくボツにされた。

2011年10月24日月曜日

林芙美子『浮雲』

 好きな日本映画を三作品挙げろと言われたら、結構当たり前の答で申し訳ない気もするが、小津安二郎『東京物語』(1953年)、成瀬巳喜男『浮雲』(1955年)、黒澤明『赤ひげ』(1965年)となる。このうち、『浮雲』は作家・林芙美子の原作だ。1951年(昭和26年)6月28日、『めし』などの連載を抱えて疲労困憊していた林芙美子は心臓麻痺で急逝する。

『浮雲』は1949年から翌1950年にかけて連載された。完結した長編小説としては林芙美子最後の作品となった。単行本の出版は急死の一ヶ月前のことである。ぼくがこの作品を読んだのは大学に入学したばかりの頃だった。ぼくは林芙美子の原作小説よりも、先に映画の方をみていた。

 成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』を初めてみたのは中学校二年生の頃だったに違いない。当時、祝祭日の午前中、「連続テレビ小説」が終わってニュースが済むと、NHK総合テレビで日本映画の名作が放映されていた。洋画は、『月曜ロードショー』(荻昌弘)、『水曜ロードショー』(水野晴郎)、『土曜映画劇場』(筈見有弘)、『日曜洋画劇場』(淀川長治)のほか、休日午後や深夜帯にいろいろと流れていたが、日本映画はあまりテレビでは取り上げられなかった。だから、祝祭日午前中のNHK総合テレビでの日本映画放映はとても楽しみだった。

『浮雲』は林芙美子の原作もさることながら、水木洋子の脚本が凄い。ヒロインの幸田ゆき子を演じる高峰秀子、優柔不断な富岡兼吉を演じる森雅之の演技や台詞まわしもいい。「男と女を撮らせたら成瀬巳喜男」という評判通りの巧みな演出。しかもチーフ助監督はかの岡本喜八であった。そのようなことは、何度も何度もこの作品を見返しているうちに徐々に了解してきたことだ。中学校二年生のときのぼくは、ただただこの地味な白黒映画から漂ってくる濃厚な情念に圧倒された。伊香保温泉の場面はあまりに禁欲的で情欲的だ。

 それから林芙美子の原作小説を読むまでに数年が経過した。大学生となったぼくは、つまらない教養科目の大教室の片隅で、林芙美子の骨太の文体に酔った。読み進んでいるうちは、「この文体の素敵さがわかる自分は素敵だ」と、手前勝手で青くさい自己陶酔感を味わったものだ。中年になってから、再びこの小説を読み返したとき、ぼくは自分の人生が指弾されているような気がした。文芸作品とは不思議なものである。ある種の予知能力がある。


贋筆少年、新聞に憧れる

 学校に提出する書類には、保護者の署名が求められたり、保護者の記入欄があったりした。小学生以来、ぼくはそうした場合に自分で記入した。己れ自身の筆跡とはあえて変化させた贋筆を弄した。悪意はない。親にそうしろと命じられた。両親とも文字を書くことが不得手であったためだ。

 父親は片仮名と平仮名は操ることができたが、ほとんど漢字が書けなかった。読める漢字も少なかった。大正九年生まれの父は、十歳過ぎまでに両親を相次いで喪った。一応、戦前の地主の跡継ぎで、学校に通うことよりも一人前に稼ぎ、田地を守ることが父には要求された。少年だった父を騙して田地を奪い盗ろうとする親族もいたらしい。

 母親はぼくにとって継母である。育ての母だ。大正十五年生まれ。片仮名・平仮名も含めて、文字の読み書きはほとんど出来なかった。継母は、徳島祖谷渓の阿佐家の出である。祖谷の阿佐家は平国盛の直系の子孫と伝えられ、いわゆる「平家の赤旗」が屋敷にあったことを継母はぼくに伝えてくれた。

 しかし、継母の祖父に当たる人物が「呑む・博つ・買う」で大山師だったらしく、家は衰退、家族は離散してしまう。継母は尋常小学校二年生で徳島市内に子守奉公に出された。そのため母はせっかく覚え掛けた片仮名もほとんど忘れてしまった。なお、その後、阿佐家の屋敷は、名勝地・大歩危(おおぼけ)に移築され、今は「平家屋敷」と称されている。

 保護者記入欄の贋筆問題はともかく、両親が文字に不自由だと困ったことが一つあった。それは新聞である。小学生のころは新聞よりも『少年チャンピオン』あたりがあればよかった。別に新聞が我が家にないことに不自由は感じなかった。ところが、さすがに中学生になると新聞が恋しい。我が家にも新聞がほしい。そう思うようになった。

 中学校の三年間は、学校の図書室にある新聞で用を済ませた。「高校生になったら新聞をとってほしい」と親に懇願したのは、高校入学前のことだった。高校生になってからまもなく、我が家の郵便受けに『朝日新聞』が投函されるようになった。活字の級数は今よりも小さかった。行送りも控えめで、ぎっしり文字が詰まっていた。それを我が家で読めることがこよなくうれしかった。